なにゆえに国家装置の各部門がそれぞれに組織規模や権限・権力を自己増殖しようとする傾向を不可避的にもつのか?
ところで、この疑問の前提として、そもそも人間の集団組織は、いやもっと正確には集団組織の指導者や支配者は、人類が人類という生物種になったときには、すでに家族や血族、さらには氏族、部族などを膨張させることを独特の本能にしていたように見える、ということがある。
というよりも、あらゆる生物種はその生存圏や個体数の拡大を追求する遺伝傾向を持っているように見える。一見おとなしく見える植物でさえも、土壌や日射をめぐって異種間はもちろんのこと、同種内の個体どうしで鬩ぎ合い、殺し合いをして、自己の種の個体数や生存圏の拡張をしている。
「人間」「人類」をそういう生物群と区別して一段上に置こうとする考えは、誤りだと思う。同じ地球の生き物なのだ。もとより、そういう生存闘争を抑制しようとする「理性」もヒトに固有のものだが・・・
それが、人間の場合は固有の「社会秩序」あるいは権力装置をこしらえるという点で特殊かもしれない。文明とか文化、イデオロギー、兵器や武器などのメディウム(手段的な装置)を使って争う。そういうもので集落規模の「くに」からはじまって人種、民族、国家などの「排他的なまとまり」をつくり上げて競争する。
だから、ほかの生物たちがが生存競争によって生態系のそこそこの均衡を保ち、棲み分け共存にいたるのに、人間の場合は、歯止めがない。
いや、人類が滅びることが歯止めというか、均衡点の回復なのかもしれないが。
いずれの立場であれ、政治学の理論は、政治現象とは、人間の社会を一定の特殊な秩序枠組みに組み込もうとする運動、人びと諸個人、あるいは集団の競争的ないし対抗的な相互作用である、という出発点を共有している。国家装置はその典型である。
もちろん、経済活動のなかにも、規模の大きな企業のなかにも、政治現象はある。社会のなかの資源や価値のできるだけ多きな部分を自分の属する集団組織に取り込もう、あるいは自分の集団組織の統制下・支配下に置こうとする、駆け引きや利害闘争、足の引っ張り合いなどなど…。
ところが、現実の世界では、国家装置(の個別部門)の運動には、往々にして、その――せっかく自分たちでつくり上げた――秩序の安定や均衡の破壊をもたらすような自分勝手な自己増殖の衝動が見られる。全体の均衡や安定、安全などは後回しにしようとする。いうまでもなく、経済的市民社会では飽くなき利潤獲得競争、企業間の生存闘争が展開されている。
もちろん、社会が存続してきたからには、そういう衝動は短期的なもので、対抗勢力とか国家装置のほかの部門との競合や牽制のなかで一定の範囲内に制約されてきたのだろう。
だが、ナチズムや全体主義のように、破局まで突き進む場合もあった。日本もかつて、近代化のために富国強兵を進めて破局的な戦争に行き着いた。
アメリカにも、1950年代のマッカーシズムの時代があった。
私が思うに、集団組織がある程度成功すると、その組織のなかでの個人やセクトの地位の上昇を求めての「過剰適応」が始まるからではないかと思う。ある1つの成功パターンとか行動パターンを持続させ、拡大再生産するような過剰適応が。
つまり、自分の地位や影響力の上昇とか、報酬の取り分の拡大は、これまでの成功体験のパターンを同じように持続拡大していくことでしか得られないという固定観念が生まれるのだ。
ほかのパターンとか、組織の規模や権力を小さくする道を考えたり選択できなくなるのだ。
しかも組織のなかでも、出世競争とかステイタス上昇志向=意欲が、同じルール、同じプロトコールでの実績・成績の積み上げ競争を生み出す。それは、数量的に計測できる優劣の競争(強引に数量化=点数化した競争)になっていく。セイタカアワダチソウが群落のなかでほかの個体を押しのけて成長し、ほかの個体の成長を妨げ、生存条件を奪い合うように。
すると個性の違いとか質的な差異によって自己の存在感をアピールする行動パターンよりも、ほかの人と数値的・数量的に比較できて自己の優位をアピールできる成功の尺度、成功の尺度を固定化していくようになる。「勝ち組」の優越がそういう文化風土を強化していく。
その方が人びとを派閥や集団にまとめやすいし、そのなかでの上下の序列を演出しやすいからだろうか。
人間諸個人は弱く愚かにできているから、そういう尺度やアピール方法になびきやすい。で、自分の評価や報われ方には多少とも不満はあっても、集団組織のなかでの地位序列のなかに自分の居場所をみつけて、安住した方が楽だ。居場所に安住して従順にしていれば、とりあえずの食い扶持が分配されるし。
そうなると、権力志向、出世意欲むき出しの指導者が暴走し始めても、批判や反乱、スピンアウトなどができなくなる。いや、むしろ指導者の「お先棒担ぎ」、「提灯担ぎ」をして、指導者のご機嫌取りに成功した方が、報酬は大きい。
この段階で、従来の序列の下のほうでくすぶっていた輩が、成り上がり競争を始めたりする。ナチズム時代には、しだいに食わせ者や人格破綻者がヒトラーに取り入っていったようにも見える。
企業経営でも、ゴマすり野郎とか、イエスマン、食わせ者たちが指導者の周りを固めていくようなことが起きる。
で、過剰適応が加速し、組織全体の暴走になる。
そんないじましい運動傾向が個人から始まって職場、企業や団体から国民国家、世界経済にいたる社会生活の各レヴェルに貫徹しているのではなかろうか。
話が下世話、瑣末になってきたが、要するに、そういうことではないか。これをアカデミックに表現すれば、それなりの理論ができるかもしれない。
過剰適応とは、言い換えれば、創造力、独創性、想像力の欠如である。現行の成功や達成に酔っていて、もっと別のやり方、別の可能性(オルタナティヴ)を考えついたり、あるいは現状で割を食っている立場の人びとのことを想像したりできない想像力の貧困に陥っているのだ。
個人的なことだが、私はそういう傾向が嫌いである。「敗者の負け惜しみ」と言ってもいい。もちろん見えや競争心はある。だが、マスメディアがもてはやす成功話にはあまり興味を向けない。流行には、あとになってから、おずおずとついていく。少し変わった視点からの評価や検討を加えながら。
徒党を組まない。いや、組めない。落ちこぼれというか、スピンアウターというか・・・。とはいえ、そういう現実世界、修羅の娑婆を変えようという気概もないから、現状を黙認・追認しているだけなのだが――客観的には加担者でしかない――。
でも、これは少数派の意見ではないと思う。腹のなかでは、多数の人がそう考えているように思いたい。
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