この作品の物語に関連するトピックスを扱ってみよう。
この作品はすごくシリアスな主題を扱っていて、殺伐とした場面が断続する。
けれども、主人公を演じるのがウィル・スミスということで、重苦しさがかなりの程度解消される。救いようのない話題に、どこか飄々とした存在感あるいはユーモアというか、間が生まれる。
茶目っ気たっぷりの腕白坊主のままおとなになったような雰囲気、それがウィル・スミスには漂う。と思うのは、私だけだろうか。
その飄々とした余裕、飄逸さ、茫洋とした表情の裏に腕白ないたずら心が潜んでいて、ところどころで顔をのぞかせる。そんな親しみのある兄ちゃん、それが私の「ウィル・スミス像」だ。
どんなに緊迫した場面でも、彼の演技や表情を見ると、「奥の手のいたずら」をどこかに隠しているような雰囲気、飄々とした間が生まれる。演技がワンパターンなのではない。その人自体に絡みついた雰囲気なのだ。いや、こちらの先入観かもしれない。
その独特の存在感が、百戦錬磨のジーン・ハックマンのこれまた特異な存在感と絶妙に絡み合う。
この取り合わせ、キャスティングの妙は、誰が生み出したのか。拍手を送りたい。
ここで描かれた事態の深刻さは、NSA幹部のレイノルズが、狂信的な愛国者としてではなく、自分の昇進(出世欲の満足)のために、徹頭徹尾打算ずくで、監視法案の議会通過をめざして狂奔するすることだ。組織を動員して、何人もの生命を奪い、議会や市民社会をとことん欺きとおそうとする、その姿。
官僚としての出世競争での勝利のために、彼の計算ずくのポリティクスが繰り広げられる。その姿勢は、自宅での妻とのやり取りの場面から浮かび上がる。
「学歴やキャリア、実績からすれば、とうにNSAの副局長、いや局長になっていてもおかしくないのに…」という自負、過剰な自意識。
そして、「今度の監視法が成立すれば、トップへの昇進への道が開けるんだ」という台詞。つまりは、実際に「テロリストの脅威への万全の準備」というよりも、NSAという特殊な組織、特殊な国家装置の権限と地位の上昇に帰結するがゆえに、この法案を推進するというのだ。
というのも、この法案が通れば、連邦全体の市民社会を監視・統制するために、膨大な予算と執行権限、ほかの政府組織に優越する威信と財源、すなわち権力を手に入れるのだ。その権力を、こんどは自分の政敵や、気に入らない団体、個人を貶め抑圧するために行使するのかもしれない。
だが、心底「愛国心」で頑なに凝り固まった輩よりは、いく分ましなのだろうか。それとも、はるかに危険で手に負えない手合いなのだろうか。
この映画では、対テロ監視法案の推進派の右翼議院は、怪死や統制と対象は自分たち「政治エリート」ではなく一般市民であって、彼らは自分たちエリートの指導や統制を受けるべき「下等市民」だという思い上がりが描かれている。たしかに国家装置による監視体制や統制レジームの強化を政治的フィールドで旗振り役をするのは政治家たちだ。
ところが、そういう政治的運動を背後でお膳立てし誘導しているのはキャリア官僚たちで、彼らは「愛国心」よりも自分たちの権力闘争や予算獲得競争・権限拡大競争のためにそうしている、という構図なのかもしれない。