第5章 イングランド国民国家の形成
この章の目次
領域国家はひとたび成立するや、辺境に支配を広げ、やがて吸収しきれないほど強力な別の政治体の勢力圏とぶつかるまで領土をひたすら拡大する。これはブリテン諸島にも当てはまる。ブリテン島主要部を制圧したイングランド王権の地理的拡大は、まず王権の中心部に近い辺境から、つまりウェイルズ(カンブリア地方)から始まり、相手の抵抗力がより小さいところを探して進む。すなわち、ウェイルズが征服されるとヒベルニア(アイアランド)へ、だが彼らの抵抗にてこずると、カレドニア地方(スコットランド)へと侵入していった。
とはいえ、領域=王権国家がその名目的な支配圏域を拡張したとしても、そのことは支配圏域をカヴァーする統治組織をつくりあげたということを意味するわけではない。当時の王国とは王と地方領主集団との属人的連携でしかなく、領土的結合はまったく意識されることさえなかったのだ。
ウェイルズへの侵略は12世紀前葉に開始され、1285年に征服が一応完了する。この征服は王によってではなく、イングランド辺境の領主によって開始された。辺境領主たちはウェイルズ諸部族を平野から丘陵に追い立て、奪った土地を自らの所領に付け加えた。最後に残った北部ウェイルズの君主ルウェリン家は――ウェイルズだけでなく、イングランドの辺境領主にもその臣従誓約と引き換えに領地を分封していた――、アングルスィ島の穀物地帯を背景にスノウドン山系に立てこもり、イングランド王権から独立を保っていた。
業を煮やしたイングランド王エドゥアール1世は、軍事拠点に城砦を築いてそれらを軍用道路で結びウェイルズ北部を攻囲し、最後にチェスターから海岸線に沿って進撃しアングルスィからの食糧補給路を遮断して、ルウェリン家を屈服させた。征服後、北部ウェイルズはいくつかの州に分割され、王権による直接の統制に置かれた〔cf. Morton〕。ところが、ウェイルズを好き勝手に切り取った辺境領主たちの王室への反抗的心性は潜伏し続けた。この時点では、ウェイルズの大半はイングランド王権に従属する辺境をなしてはいたが、その行政機構に恒常的に編合されたわけではなかった。
それにしても、政治的・軍事的にイングランドに統合されたウェイルズでは、ロンドンの商業資本の利害に照応した農業生産と土地経営がしだいに浸透していった。イングランドはヨーロッパ分業体系の従属的部分とされていたが、ウェイルズはさらにそのイングランドに従属した再生産構造になっていったのだ。
ところで、ウェイルズ征服戦争は、イングランドに封建騎士の没落を準備する軍事技術・戦術をもたらした。ウェイルズの機動的な歩兵による長弓がイングランド王軍の編成にインパクトを与えたのだ。丘陵や渓谷の遮蔽物の多い戦場で、視座の高い陣地から射る長弓は長い射程と強い貫通力を備えていて、迫りくる重装騎士の鎧を貫き、彼らの得意な密集接近戦にもちこませないうちに勝負をつけることができた。ウェイルズの長弓兵の反撃にてこずったイングランド王の軍隊は、機動的に動ける軽装備の歩兵=射手による長弓と重装騎兵を結合させる戦術を開発した。自立的な作戦単位として一騎打ち戦術を駆使してきた騎士は、より大きな作戦単位のなかでより上位の指揮に従う非自立的部分として位置づけ直された〔cf. Morton〕ことになる。
イングランド王国の長弓兵
出典:M. Howard, op.cit.
この戦術は、12世紀後半から始まるアイアランド侵攻でただちに用いられ、アイアランド諸部族の抵抗を容易に打ち砕いた。征服の緒戦が終わると、旧ノルマン貴族とウェイルズ人たちが移住したが、まもなく彼らはアイアランドの慣習に同化・土着化し、やがて世代交代とともにイングランド王権の支配から自立していった。海峡で隔てられたこの島に王権中央からの統制に従順な軍隊を常駐させることができないかぎりは、避けられない事態であった。
それでもアンジュー王権は、異教徒への布教の担い手として、教皇庁からアイアランドへの名目上の宗主権を認められた。その後、アイアランドでは、――それまでは、土地は部族全体に帰属するものとされ、部族長が部族の同意にもとづき土地の管理権を行使していたので、制度としての土地の私的所有はなかったが――部族長とイングランドの領主貴族の所領財産として土地が切り分けられ、多数の小領主が分立割拠する状況になっていった。イングランド王権による支配が本格的に再開されるのは、テューダー朝になってからであった。
スコットランド(カレドニア)はアングロサクスン時代のノーサンブリア州と辺境を接していたが、13世紀までに封建的領主制がスコットランドに浸透していった。部族長や豪族たち相互の権力関係が封建法にもとづいて階層序列化されたのだ。ブリテン島北部のカレドニアもまたヨーロッパ大陸の属領・植民地と観念される中世的秩序構造のなかで、スコットランドには、イングランドだけでなく大陸ノルマンディにも知行地をもつ領主がいた。ときたまイングランド王は、スコットランド王国に対する優越=宗主権を出張して辺境地帯に軍を派遣することがあった。
13世紀末にマカルピン王家の血筋が途絶えると、王位継承をめぐって多数の貴族のあいだの紛争が生じた。このとき、イングランド王エドゥアール1世がスコットランドへの宗主権を誇示しながら、王継承争いの仲裁に乗り出した。エドゥアールはスコットランドとの辺境に軍隊を進め、自分がスコットランドの最上級領主であると宣言し、いったんはジョン・ベイリアルにその地の王位を認めた。
だが、ベイリアルを屈服させようと執拗に圧迫を加え続けたようだ。そこで、ベイリアルの反逆を受けると、軍を返して商業都市ベリックを占領して彼を王座から追い落とし、ウォリン伯をスコットランド総督に任命して統治にあたらせた。しかし、スコットランドの民衆が――ウィリアム・ウォリスを首謀者とする――反乱を起こしたことで、貴族も巻き込んでイングランドとの長い抗争に入り込んだ。この戦争でも、長弓と重装騎兵を組み合わせた戦術が用いられた。
14世紀はじめにイングランド王軍が反乱を鎮圧してまもなく、領主貴族ロバート・ブルースは王座について、イングランド王権から自立しようとした。エドゥアール1世は、ブルースの抵抗を封じ込めようとする戦いのさなかに斃れた。イングラン王位を継いだエドゥアール2世は、スコットランド遠征を企図したようだが、イングランドのバロン同盟との敵対のなかで廃位され殺害された〔cf. Morton〕。
不毛な対スコットランド戦争は、次王エドゥアール3世によって再開されたが、イングランド王権が大陸での領土をめぐるフランス王権との戦争(百年戦争)にとらわれたことによって終わってしまった。
世界経済における資本と国家、そして都市
第1篇
ヨーロッパ諸国家体系の形成と世界都市
補章-1
ヨーロッパの農村、都市と生態系
――中世中期から晩期
補章-2
ヨーロッパ史における戦争と軍事組織
――中世から近代
第3章
都市と国家のはざまで
――ネーデルラント諸都市と国家形成