第5章 イングランド国民国家の形成
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17世紀中葉にイングランド国家機構の再編がきわめて暴力的形態をとったことは、エリザベスの死後、王位を継いだステュアート家とその取り巻きによる王権運営が、国民 nation として政治的に組織されつつあるイングランド社会構造とのミスマッチを著しく拡大してしまったからであった。とりわけ世界市場での競争でイングランド商業資本の優位をめざす政策を、妥協的な形にしろ、この王権は打ち出すことができなかった。
そして、ヨーロッパ諸国家体系のなかでそのような政策を遂行し、経済的にも文化的にも国民的統合を進めるために肥大化・複雑化していく国家機構は、伝統的な王室収入――主に王領地と関税からの収入――では財政的にまかないきれなくなっており、また国家諸装置を政策的に管理するためには、従来の王権機構ではあまりに不充分になっていたのである。
つまり、国家機構全体の最上位の総括者が王であるという状態から、王権が国家機構の1装置としてブルジョワ的装置からの統制を受けながら運営され、貧弱な王室財政をはるかに超える財政収入によって国家諸装置が支えられる状態への転換が避けられなかった。言い換えれば、国家の政治的装置としての王と王室が、そのパースナリティや恣意によっては影響されない存在となるように統制され、王室財政を超えた国家財政という制度が創出され、財政資金が国民的規模での課税・徴税制度、公債制度をつうじて調達され、広範な金融市場と結びつけられた財政制度が組織化されるレジームへの移行が必要になったのである。
王権は、こうした要求を受け入れなければ、ひとまず破壊されるしかなかった。
ブルジョワ的装置とは、貿易と金融を営む特権商人と貴族層も含めた地主階級との利害同盟に沿って機能する国家装置のことで、その中核は議会庶民院。庶民院は、課税に関する決定権を行使して王室の財政収入の側面から王権を抑制・統制する権力をすでに掌握していた。王の顧問会議の多くにもブルジョワ出身の貴族たちが席を占めていた。とはいえ、王とその側近たちで構成された枢密院の意思決定や行動に対しては、あまり影響力をおよぼせなかった。
1603年にステュアート家のジェイムズがイングランド王位を獲得して、スコットランドとイングランドは同君連合(連合王国)となった。翌1604年、親カトリック派のジェイムズ1世は、断続的な戦争状態にあったエスパーニャ王権と講和条約を結び、さらに同盟政策にまで進んだ。そして、王室の海軍は財政的にも技術的にも手当てを受けず、荒廃していった。宮廷をめぐる権力ブロックは組み換えられ、王と議会との関係も対立的になっていった。だが、議会が承認・管理する財政収入がなければ、王権の運営はおぼつかなかった。
17世紀前半には、王権による国家装置の運営のためには平時でも少なくとも50万ポンド必要であると見積もられるが、王領地と王国関税からの収入は30万ポンドでしかなく、残りは議会(庶民院)の認可を得た特別税から、つまり商人層と地主層の所得から引き出さなければならなかったのだ。
ところが、ステュアート王権はエスパーニャ王権との対抗を貫くことができないうえに、「王権神授説」を持ち出して王権を支えていた――議会と顧問会議をつうじての――権力ブロック内部の利害調整をはねつけた。にもかかわらず、ジェイムズは財政収入を増大させようとして、議会を招集した。すると、庶民院の代表(議員)選出過程は王権との対抗意識に強く影響されたものとなった。そのため、庶民院における商人層と地主層の代表は、王が要求した課税金額のごく一部しか承認しなかった。
王は歳入の不足分については、シティ・オヴ・ロンドンの用心深い金融商人からの金利が高く償還期限が短い借款に頼るしかなかった。というのも、金融市場で王室は一般商人と競争して借入れを行なわねばならなかったからだ。
王権と庶民院との激しい対立は、ジェイムズの死を挟んで40年近く続いた。
1628年には、王チャールズ1世が特別補助金の支払いと王軍の戦費の負担を強制しようとしたことから、庶民院は権利の請願 the Petition of Right を採択しチャールズに突きつけた。翌29年には、これまでの慣習的な税率に対してさえも議会の統制が試みられた。王に抵抗する議会は解散され、その後11年間開かれなかった。王と枢密院の顧問官たちは、王室収入の手当てのために、議会の承認を必要としない王室固有の財産権からの収入の増大、つまり王領地の利用権をめぐる賦課や船舶税の強化を進めた。これが、地主層や借地農、貿易商人の反発を招いたのは、言うまでもない。
王と庶民院との武力衝突のきっかけは、スコットランドへの出兵の失敗だった。スコットランドの宗教界ではプロテスタント長老派教会が支配的で、信者による一連の集会をつうじて底辺から最上位の総会まで組織されていた。その信者とイングランドでの同調者は、独立派ピュアリタン Independent
Puritan と呼ばれ、厳格な宗教的規律・倫理観と急進的政治思想をもっていた。ステュアート王権は、アングリカン教会を再編してイングランドの――王権に盾突く――ピュアリタンを圧迫していた。
ところが、スコットランドでは、有力貴族層も含めてプロテスタントの影響力が強く、王家は長老派教会を抑え込むことができなかった。そこで1638から40年にかけて、チャールズは長老派教会を攻撃・破壊してスコットランド王権の専制支配を敷くため、イングランド王軍を率いてスコットランドに遠征しようとした。だが、王室財政の逼迫のなかで貧弱な武装と兵員しか用意できず、すぐに休戦に追いこまれたうえに、多額の賠償金を支払わねばならなくなった。王チャールズは賠償に充てる資金をかき集めるため、ついに議会を召集する必要に迫られた。
1640年に召集された議会は、王と庶民院との闘争の場となった――そののち議会は同じ召集メンバーのまま、1653-58年までの中断期間を経て1660年まで継続するので、長期議会 Long Parliament と呼ばれる――。庶民院は、自らが代表する貿易および金融商人階級と地主階級の利害に沿って政策を遂行し統治するために必要な資金についてしか課税を認めなかった。ピュアリタンの影響を受け反カトリック派優位の議会は1641年、大抗議文 Grand
Remonstrance を可決し、さらに翌年、王の統治権力を剥奪するため王の裁判大権の停止を決定し、枢密院と星室裁判(所)を廃止した。王が組織する中枢諸機関が停止した。
星室裁判は、ステュアート王朝になってから、ピュアリタンの弾圧など王の恣意を押し通すために用いられたため、王の顧問会議のなかでも王の専制=横暴のための装置として人びとの憤懣の的となっていた。それというのも、王権至上法によって、明確な組織規定や運用規則を定めないまま、星室院(スターチェインバー)が王権による最高法廷と位置づけられてしまったからだ。
というわけで、議会派は後の世に「絶対王政」と呼ばれるレジームを解体・除去する必要――専制王政を破砕してできるレジームは「議会主権」と呼ばれる――を痛感したものと思われる。そのために、象徴的組織として「星室院」を破壊する必要があった。
また、王権至上法は、王をアングリカン教会の首長とし司教組織を王の権威を伝達し、教会行政を政治的支配装置として機能させる仕組みとするものだった。そこで、ピュアリタンにとっては、王の専制を排除するためにはアングリカン教会組織、とりわけ司教制度を解体する必要あると見られたようだ。
世界経済における資本と国家、そして都市
第1篇
ヨーロッパ諸国家体系の形成と世界都市
補章-1
ヨーロッパの農村、都市と生態系
――中世中期から晩期
補章-2
ヨーロッパ史における戦争と軍事組織
――中世から近代
第3章
都市と国家のはざまで
――ネーデルラント諸都市と国家形成