第5章 イングランド国民国家の形成
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このような王権の構造転換を、世界貿易という文脈のなかでの商業資本の成長および産業構造の変動という側面から照らし出してみよう。ヨーロッパの社会的分業体系におけるイングランドの従属的地位は、イタリアやハンザなど域外商業資本の権力の優越という事態として表現されていた。この権力構造は、それぞれの域外商業資本グループと王権との政治的・財政的な結びつき――王室財政の域外資本への依存状態――にこそ明白に現れていた。
イングランドは産業的・通商的にはヨーロッパ大陸のいわば「植民地」だった。つまり、原料としての羊毛と食糧としての穀物を生産し、フランデルンに輸出していたのであって、ヨーロッパ分業体系のなかでは従属的な地位を割り当てられていた。域外の遠距離貿易商人によってイングランド諸産業の再生産条件が支配されていたのだ。そのことがとりわけ当てはまるのは、羊毛取引きと織布をめぐる生産関係だった。すでに早くも1258年には、王権は羊毛の輸出禁止措置によって国域内加工を強制(域内織布産業を育成)しようと試みた。だが、それはまだ時期尚早の試みで、ブリテン島内部およびヨーロッパ大陸にわたって分業や流通経路――諸産業の配置と結合――を支配していた域外商人の力の前に屈服せざるをえなかった。なによりも、王室財政が域外商人に非常に強く依存していた。
概してブリテン島にはイングランド王権に対抗できるほどに強力な領主層(教会権力も含む)がいなかった。ゆえに、遠距離貿易では宮廷との関係によって域内で活動する商人の影響力が左右された。域内での商業特権のありようは、王室財政への貢献度によって決められたからだ。
12世紀から16世紀までは、王権は目前の(短期的な)王室財政の収入を優先したので、いまだ幼弱な域内商人を保護育成することよりも、すでに強力な基盤をもつ富裕な域外商人に特権を与えることによって商業振興をはかり、関税収入や賦課金の増大、融資の獲得をねらっていた。これが王室財政主義 Kammeralismus の行動様式・思想だった。王権は外国商人の地位と権利についての法を公布していた。1303年の商人憲章で王権は、外国商人に対して交易のための自由往来、小売取引きの許可、身体・財産の安全などの権利を保障していた。
イングランドの輸出で大きなシェアを占めるのは原毛――このほか、皮革、鉛鉱石、塩など――で、フランデルンの毛織物産業に羊毛を輸出していた。13世紀後半には、輸出された羊毛総量のうち取扱量のシェアは、イングランド商人が約30%、イタリア商人が24~30%、フランス商人と北部ネーデルラント商人がそれぞれ約20%、ブラバント商人が約10%、ドイツ商人は約10~12%を占めていた。イタリア商人は少数の飛びぬけて有力な商人がそれぞれ大量の羊毛を取り扱っていた。イングランド商人は中小規模の商人がほとんどだった。ドイツ商人はさらに零細だったが、ハンザはイングランドの経済的再生産に不可欠の生産財・消費財を供給していた。
14世紀になるとハンザ商人が羊毛輸出でのシェアを広げ、さらに新興製品部門の毛織物の輸出に強力に食い込んでいった。1377~99年のボストン港における毛織物輸出総量のうち、ドイツ商人は75.3%を占めていた。彼らは羊毛輸出でのシェアも拡大した――原毛はイングランド域内で繊維産業に供給される比率が高まったので、その輸出に回る比率は減っていったはずだが。その頃イングランドでは、毛織物工業・造船業などの製造業が成長するとともに、東欧・バルト海方面から穀物・木材・毛皮・銅鉱石などの食糧・原料を輸入するようになっていった。それゆえ、イングランド貿易でのハンザの影響力は拡大していった。とはいえ、多数の小資本がそれぞれ小さな取引き量を扱っているという事情は変わらなかった。
イタリア商人はといえば、13世紀以降、少数の巨大資本(大商事会社)が高価な奢侈品を宮廷や有力貴族に売りつけるという通商スタイルになっていた。西ヨーロッパの通商ネットワークをつうじて巨額の資金を動かす彼らは、修道院・教会組織の教皇庁への納税・送金を仲介するとともに、王室への融資に手を染めていった。それは、王室財政と癒合したハイリスク=ハイリターンな金融で、王権が独占する貨幣鋳造や徴税への介入をともなっていた。この介入は、王室への融資と引き換えに特定期間の貨幣鋳造権や関税徴収権を買い取るというものだった。だが、1346年、王室財政の破綻とともにイタリアの多くの商事会社が没落の渦に引きずり込まれた。
それにしても、イングランドでは13世紀から14世紀にかけて、域外商人の支配のもとでではあったが、土着の商人がイングランド内部での取引きに能動的にかかわり、原材料としての羊毛の生産から製品としての織布の製造へと産業成長を誘導し、しだいに産業構造を発展させてきた。国内商人のギルドが成長し、14世紀末までには、ロンドンの毛織物商人が剪毛工や織布工を統制するようになる。
その時代、イングランドの羊毛のフランデルンへの輸出はハンザやネーデルラント商人によって組織されていた。国内での羊毛の集荷・選別・精製や織布生産の管理と集荷についてはイングランド土着商人が担っていた。だが、彼らを指揮して主要貿易港での積み込みを組織し、また利潤の大きい船舶輸送を独占していたのは域外商人層だった。ことに北イタリア商人は、イングランド羊毛織布貿易の独占のために王室に巨額の融資とともに巨額の賦課金を収めて、貨幣鋳造や関税徴収にさえ介入していた。ハンザ商人はより着実な方法ではあったが、王室への小額融資と引き換えに、輸出の許可承認を取り付けていた。
王室にとっては、短期的にはその方が収入は大きかったのだ。北イタリア商人やハンザ商人からの王権の独立は財政上の逼迫を意味していたため、彼らの通商権力を制限するわけにもいかず、産業政策も中途半端に終わった。なにしろイングランド土着商人層は、いまだ階級として十分結集していなかったし、王権との政治的・財政的提携を実現できるほどに成熟してもいなかった。域外の商業資本への王室財政装置の従属を断ち切ることと、王権と国内商人との国民的ブロックの形成は同じことを意味した――王権の政治的・財政的な支持基盤を新たに据えなおすことなのだから。この過程は14世紀から16世紀にかけて徐々に進行していった。
14世紀の王権政府の財政・通商政策ないし王権と商人との関係では、まだ純然たる王室財政主義的な観点が優勢だった。王室財政主義とは、短期的な王室収入の獲得を優先し、そのため土着の商人であれ、域外の商人であれ、とにかく王室財政により多額の資金を支払ってくれる側の利害に優先順位を与える行動様式・思想であった。
しかし、この行動様式・思想は、域外商業資本への財政的依存が続くため、長期的にみると王権の基盤を強化することはできないし、むしろ王室財政の基盤を弱めることもあった。王権が、領土内の経済生活全体に介入して産業構造の変革を方向づける力を手にするためには、国内に基盤を置いて遠距離貿易を《自己中心的に組織》できる力、つまり自国の強力な商業資本を育て、国家装置に連結することが不可欠だった。そのための政策思想が重商主義だ。
しかし、王権との関係において域内商人の特権がそれなりに守られる構造が存在するのと、完全に域外商人の支配が貫徹してしまうのとでは、長期的には大きな違いが出る。域内商人が成長する余地があれば、やがて独自の勢力を形成して王権に圧力をかけたり、接近したりすることができるからだ。
この違いは、エスパーニャが羊毛の生産という従属的役割をずっと固定されてしまうのに対して、イングランドは毛織物生産の域内独自の成長をなしとげ、域内商人の海外交易での自立と劣位の挽回を達成し、やがて17世紀には世界経済のヘゲモニー争いに加わることができるまでに広がってしまう。
域内の諸都市と商業資本が成長して政治的に結集し、王権と連携・同盟できるかどうかは、王権国家の将来を左右する要因なのだ。エスパーニャ王権の没落の経過については、私たちは前章で考察した。
世界経済における資本と国家、そして都市
第1篇
ヨーロッパ諸国家体系の形成と世界都市
補章-1
ヨーロッパの農村、都市と生態系
――中世中期から晩期
補章-2
ヨーロッパ史における戦争と軍事組織
――中世から近代
第3章
都市と国家のはざまで
――ネーデルラント諸都市と国家形成
第3節
ネーデルラントの商業資本と国家
――経済的・政治的凝集とヘゲモニー