第5章 イングランド国民国家の形成
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さて、長期にわたって断続した戦争の結果、イングランド王プランタジネット=ランカスター家は大陸での領地のほとんどすべてを失ってしまった。戦争に投入された多数の生命と膨大な財貨が、何の見返りもなしに浪費されたということになった。とりわけフランデルン征服の失敗によって、ヨーロッパでも最有力の毛織物生産地との政治的結びつきを失った王権と商業資本とは、イングランド域内で自前の製造業、とりわけ毛織物製造業を育成・奨励する方向への政策の転換をおこなわざるをえなかった。王室と都市・商業資本の同盟提携関係の再構築と経済政策・財政政策の転換が避けられなくなった。
ところが、15世紀半ばのフランスからの撤退は、同時にイングランドにおける統治構造の再編の始まりだった。フランスからの軍隊の撤収は、何よりも巨大な軍事力の担い手の一団――多数の兵士を雇っている好戦的な貴族層――をイングランド内部に連れ戻すことになった。彼らは、戦役に対する見返りを得られず、広大なフランス領地の喪失を招いた王と宮廷の指導権に対して根深い不満と不信を抱いていた〔cf. Morton〕。そのうえ、宮廷をめぐる有力貴族のあいだの紛争が続いていた。それは、エドワード3世が王室の勢力基盤を強化しようとして、子供たちに有力貴族の相続人たちとの婚姻を結ばせたため、王位や王室財政をめぐる利害闘争に多くの有力諸侯を引き込んでしまったことが原因だった。ヨーク派とランカスター派との王権をめぐる武力闘争は、このような状況を背景にして発生した。
危機感を抱いたときの君侯領主たちの家門=通婚政略ほど紊乱をきわめたものはない。14世紀末から16世紀戦半までのイングランド王室・王族や有力貴族家門の政略通婚は、エスパーニャ王族やフランス王族を巻き込んで展開し、奇怪で滑稽というほかない。とにかく危機感のなかで家門勢力の維持存続を必死に追求した結果だろう。
それにしても、イングランド王位継承に絡んでくる舞台の立て役者は、ランカスター公家門とヨーク公家門、そしてリッチモンド伯テュ―ダ―家門だ。筋立てを簡単に描けば、プランタジネット家は王座から引きずり落とされて王位はランカスター家に移り、次にヨーク家に奪われ、ヨーク家の分裂内紛の結果、テュ―ダー家の手に転がり落ちていった。テュ―ダ―家は、エスパーニャ王室と通婚したが、やがてそれが災いして宮廷の内紛と王位継承紛争に陥ることになった。
戦費調達のための課税による諸地方の疲弊は、王権への地方民衆の不満を蓄積させ、15世紀半ばにケント州が反乱を起こした。この時代には、諸階級はいまだ国民的規模ではなく、あくまで地方的文脈のなかに自らを位置づけ、政治的まとまりを形成していた。ケントの反乱軍は、中下層農民や職人労働者とともに多くの地主、富裕農民から構成されていた。反徒たちは、王室ランカスター家の宮廷を牛耳っていたサフォーク伯派を弾劾し、王の顧問会議へのヨーク派の参加を要求し、ロンドンに向けて行進した。こうした情勢を背景に、ヨーク派が議会貴族院の主導権を握り、サフォーク派を追い落とした。
一方、ランカスター家の王は反乱派の要求を拒否して軍を派遣したが、規律も統制もない王党派の混成軍は戦闘もなしに退散解体してしまい、反乱軍のロンドン侵入を許した。反乱軍を追い返したのは、ロンドンの商人が自衛のために組織した市民兵部隊だった。
1455年、こうした王軍の弱体をついて、国王派に対するヨーク派の攻撃が始まった。これは、あれこれの王権国家装置への支配をめぐる紛争であって、敗北した敵対者はことごとく処刑され、その土地は没収されヨーク家の王領地に帰属させられた。王位を簒奪したエドワード4世は、ロンドン、ブリストルなどの貿易諸都市およびその有力商人層と密接な協力関係を築き、課税ではなく、彼らとの直接交渉――特権や恩典と引き換えの融資や援助金――によって資金をかき集めた。
というのも、課税という方法では議会の同意が必要であって、議会で王は反対派の説得や威圧、切り崩しなどに手を焼き、多数派工作に苦労することが多かったので、この資金調達方法は王権の強化にとってきわめて効果的だった。そして、有力貴族の力を抑えるために、恩顧関係を強めた富裕商人層から抜擢して直属の家臣に取り立て、爵位と領地を与え新たな(ヨーク王権派の)貴族集団をつくりだした。
こうして王権は、敵対者の所領を没収して王領地の収入を増やし、有力商人からの援助金を得て王室財政を豊かにした。その資金を投入して、自ら艦隊を建造して運用や経営を特許商人に委ねて大規模な外国貿易に乗り出した。王権は貿易を営む権利を王室の独占とし、その政治的統制をめざすようになった。つまり、外国貿易を総じて王室の権力(権原)に属すものとし、その実際の取引活動を担う商人団体には貿易特許状(特権)の付与と引き換えに賦課金や税を支払わせるようになっていった。このような貿易による利潤を王室財政に結びつける諸制度は、つまり貿易利潤の分配への王室の参加の仕組みは、テューダー王朝に引き継がれてひとまずプロトタイプとして完成されることになった。
それにしても、王族や貴族の抗争で弱体化した王権の権威を回復するためには、貴族の権力を封じこめなければならなかった。そのためには、王位継承戦争のなかで野放しになっていた貴族の軍事的・政治的権力の基盤である従者団 retainers を無力化しなければならなかった。従者団は、「王の平和」という法観念から見れば、貴族の私兵団でしかなかった。だが、有力貴族の家政統治装置のなかで彼らは法的保護を受け、役職と貨幣俸禄を与えられ、それと引き換えに軍事的奉仕などの統治機能を提供した。
土地ではなく貨幣を媒介とした主従関係ということで、この従者制度は「似非封建制 bastard feudalism 」と呼ばれている。だが、すでにそうなって久しい本来の封建契約の解体状況と貨幣経済の浸透に対応して生じた現象だった。王権は地方貴族の従者への扶持を禁止し、彼らの私兵団を解体するとともに、地方貴族によって切り取られていた王領地での王室権益――課税権や地代収取権など――を回復しその管理を強化した。このような王の家政装置の拡充強化は、域内での王権の権威と影響力を拡張する有力な方法だった。
15世紀末までは、王室の家政装置(直属都市を含む王領地の統治機関)と国家装置(王領地を超えたイングランド王国全域の統治にかかわる統治組織)との区分はほとんどなかった。そして平時の王国統治ないし国家統治の費用も通常は王室の収入からまかなった。家政装置や王国統治装置の運営については、顧問会議や貴族院による諮問や牽制を受けていた。だから、王権が弱体化するか王が幼少である――顧問会議や貴族院の有力者団が摂政となる――場合には国家統治装置は貴族層の統制を受けやすく、逆に、王が成人して王権が強力になると国王評議会などの統治装置の人事や政策をめぐって王個人の支配が強まるか、あるいは王の側近からなる王室家政装置が前面に出るかして、王室の利害が色濃く反映される中央政権の運営がおこなわれた〔cf.
Hill〕。
そもそも広大な王領地や直轄有力都市は――それなりの規模の王室家政機関があるので――イングランド規模での王の統治の有力な拠点となっていたから、反抗的な貴族やその地方統治装置の抵抗や妨害を抑えこむためにも、国家統治にかかわる政策の地方での執行という点から見ても、王領地に置かれた王室家政装置が決定的な役割を果たしていた。ゆえに、王権による集権化や統合が企てるさいには、王や側近は王室家政装置を活用した。ゆえにまた、その統治のありようは王個人の個性や人格、年齢、側近の人脈などによってかなり変動した。
世界経済における資本と国家、そして都市
第1篇
ヨーロッパ諸国家体系の形成と世界都市
補章-1
ヨーロッパの農村、都市と生態系
――中世中期から晩期
補章-2
ヨーロッパ史における戦争と軍事組織
――中世から近代
第3章
都市と国家のはざまで
――ネーデルラント諸都市と国家形成
第3節
ネーデルラントの商業資本と国家
――経済的・政治的凝集とヘゲモニー