第5章 イングランド国民国家の形成
この章の目次
バロンの反乱とマグナカルタ
ジャン王の無謀な行動――課税の重加や失敗した戦争政策、教皇との敵対など――はバロンたちの不興を買い、反乱を呼び起こした。1214年、ジャンの軍はフランス――ヴヴィーヌの戦闘――でも敗北して、カペー家派によってフランスの領地の多くを奪われていた。無謀な戦役によって大陸領地を失ったことで、ジャンはバロンの多数派と反目し合うようになった。
1215年、ジャンは多数派バロン団と同盟したフランス王太子――のちにフランス王ルイ8世となる――ならびにスコットランド貴族団に追い詰められ、監禁状態のなかで1215年6月15日、最初のマグナカルタに調印した。だが、ジャンは教皇から「約束破り、二枚舌」というあだ名を奉られていた。まもなく貴族同盟に戦いを挑み、ルイのイングランド侵攻を招いた。
1216年、イングランドのバロンの多数派同盟が招請したルイは、ロンドンでジャンの廃位を宣言し、イングランド王位を要求した。ジャンはバロンの反乱に対抗するため、イングランド各地を巡行しながら戦った。しかし、ジャンはルイの軍に捕えられ、失意のうちに没した。
王位はその年、ジャンの子息アンリ3世がわずか9歳で継承した。やがて成人したアンリは、父が失ったフランス領地を奪還しようとしてカペー家と争い続けた。無謀な戦争政策と戦費調達のための課税(税の増徴)は、当然のことながらイングランドのバロンたちや諸都市の抵抗を呼び起こした。彼はマグナカルタ――つまり王の権限の行使と抑制――をめぐってバロン同盟と対立し続けることになった。それは結局、1264年の大評議会の召集に結びついた。
アンリはイングランドのバロンとは対立していたので、フランスの貴族団に依存しがちになった。そしてフランス西部でのアンジュー伯家の失地と権威の回復のために手を打ったが成功しなかった。それでますます、イングランドでの信望を失っていった。
1242年、アンリは反乱派の盟主となっているフランス王ルイ9世(聖王)に戦いを挑んだが、サントーニュで敗北した。だがルイ9世は、イングランドに侵攻することはなかった。それは、ルイ聖王がニックネイムのように道義と礼節を重んじる性格だったということもあるが、イングランド遠征をすると不在中にパリとイール・ドゥ・フランス本領を近隣の君侯領主に攻略されかねなかったからであろう。
とはいえ、フランスでのアンジュー家門の権力は粉砕され、1247年にはルイ9世によってフランス北西部のアンジュー伯領は没収されてしまった。イングランド王アンジュー家は、ついに南西部のアキテーヌを残してフランスでの主要拠点を失ってしまった。そのためバロン同盟の反乱を招いた。
それでも無謀な行動スタイルが改まらなかったアンリは、やがて追い詰められ、バロン同盟の圧力の前に1265年、ついにシモン・ドゥ・モンフォールが指導する大評議会による王権の制限・牽制――後述――を受け入れることになった。
マグナカルタは Magna Charta Libertatum (自由大憲章)とも呼ばれ、英語では Great Charter / Great
Charter of the Leiberties of England と表記される。その最初の典範は1215年、カンタベリー大司教の後見のもと、王と反乱派貴族団との協定によって取り結ばれた。この典範には、王権を制限するために、
①教会の権利を保護すること、
②不法な理由による逮捕監禁からバロンを保護すること、
③授封者としての王によるバロンへの過度な税や賦課の抑止、
④25名の中立派バロンによる評議会の設置と勧告による王権の制限、
などを王が受け入れる義務が盛り込まれていた。
その後、16世紀まで何度も王権と貴族同盟との対立と妥協が繰り返されて、新たな典範や協約条項が付け加えられたり、再確認されたりした。現在でも、成文法典のないブリテン王国の憲法規範の中核をなし続けている。
12世紀に王権を継いだアンリ2世はイングランド王であると同時に、大陸ではノルマンディ公=アンジュー伯として広大なノルマンディ公領とアンジュー伯領をも領有していた。大陸のこの2大領地を合わせると、フランス王(カペー家)の領地よりもはるかに大きかった。イングランド王権は度重なる遠征(巡行)をつうじてフランデルンからノルマンディ、アンジュー、アキテーヌ(ガスコーニュ)にいたるフランス北部と西部に強い影響力を行使することになった。13-14世紀には、16世紀にフランス王国版図になる地域の半分以上を支配領有していた。これが、やがて百年戦争の下地を用意することになった。
ところで、すでに見たように、イングランドでは王権を中核として領主貴族が結集し利害の調整と共同をはかりながら王国を統治する政治的枠組みが形成され始めていた。ところが、フランスに広大な領地・支配地を有するアンジュー家の王たちの利害関心は、イングランド内部よりもフランスに向けられていた。
その理由は、フランスでは領主たちの支配圏域の拡張と生き残りのためにより熾烈な闘争がおこなわれていたため、絶えずそこでアンジュ―家門の権威を維持・誇示しなければならなかったこと、そして、ネーデルラント=フランデルンが北西ヨーロッパ経済の中心地となりつつあったことだと考えられる。そこで、ヨーロッパ世界市場(遠距離貿易ネットワーク)の生成の文脈のなかに位置づけて、イングランド王権と貴族層、都市の動きを分析してみよう。
ノルマン征服王朝がイングランドを支配したことは、海峡の両側、つまりフランデルンからノルマンディ、ブルターニュ、ロワール河、ガロンヌ河にいたる大陸側地域とブリテンとが単一の君侯の勢力圏ないし支配圏域となることを意味した。封臣たちは従者をともなって、毎年夏には王のフランス遠征に参加した。ノルマン族は本来、沿岸での冒険航海や交易、植民を好む部族で、その活動の結果、北フランス一帯に勢力圏を確保してきたのだ。イングランド海峡、アイアランド海峡およびその沿岸地帯は――ヴァイキングの末裔である――イングランド王権によって防衛され、海賊行為や掠奪が阻止され、商人たちの旅行や貨物の運航が安全なものにされるようになった。このことは、北西ヨーロッパの経済的連鎖のなかにイングランドが深く編合される環境を用意した。
とりわけロンドンは、地中海と北海・ネーデルラントを結ぶ貿易路であったライン河の河口の対岸に位置していた。ライン河口地方すなわちネーデルラントは、バルト海地域やスカンディナヴィア地域、中央ヨーロッパを結ぶ貿易の結節点をなしていた。貿易路は西フランスやイベリア半島にも通じていた。
そのため、ロンドンにはライン地方の商人やハンザ商人が定住して交易拠点を築き、ノルマン人、フランデルン人の商人や熟練職人の移住がそれに続いた。ロンドンを中心としてイングランド南東部の諸都市が発達し、それゆえまた手工業と交易が発展した。イングランドは、北西ヨーロッパ――フランデルン・北海=バルト海・北フランス・ライン流域・ビスケイ湾――の貿易圏に組みこまれ、貨幣経済が浸透していった。
世界経済における資本と国家、そして都市
第1篇
ヨーロッパ諸国家体系の形成と世界都市
補章-1
ヨーロッパの農村、都市と生態系
――中世中期から晩期
補章-2
ヨーロッパ史における戦争と軍事組織
――中世から近代
第3章
都市と国家のはざまで
――ネーデルラント諸都市と国家形成