さて、暗殺という言葉が示すとおり、意図や企図を闇に隠蔽し、あるい暗闇に紛れて、というように、意図や手段、方法を極力隠蔽しておこなうのが暗殺だ。だから、標的となった人物の死という重く衝撃的な出来事は、世の中の表層に浮かび上がるが、その背後に潜む首謀者や狙い、準備方法などについては、正確にはわからないものだ。
映画作品でいえば、「JFK」が典型となる。
アメリカ大統領ケネディを葬り去った、あの衝撃的な事件については、真犯人や首謀者、意図などについて、いまだに多くは闇のなかにある。真相が謎であるがゆえに、この映画はつくられた。
そして、JFKの暗殺事件については、それこそ数え切れないほどに映像作品や小説がある。
さまざまな憶説があるが、暗殺の首謀者が誰であれ、世界の覇権を握ったアメリカ合衆国の権力中枢またはその周囲で深刻な利害や政策をめぐる権力闘争・駆け引きが展開されていたことを物語る事件だった。
それとともに、世界で最先端の技術や文化を擁した国家の内部に、国家の首脳が容易に暗殺されてしまうという深刻な亀裂、あるいは辺境を抱え込んでいる実情が浮かび上がった。そして、銃器などの兵器による暴力が市民の社会生活にこびりついたままになっている社会だということも。
銃が市民社会のなかに野放しになって存在するという状況を考えるうえで、国家内部の軍事的環境の歴史を見ると、
ヨーロッパや日本、アジア諸国では、銃砲や刀剣などの殺傷兵器を一般民衆や地方権力者から取り上げて、国家の中枢機関である軍に独占=集中させることで、市民社会空間の平和――権力や利害をめぐる闘争の平穏化――を達成することで「近代化」を達成してきた。
ところが、アメリカでは中世後期から近代初期の暴力が野放しになったまま、市民社会が構築され最強の「近代国家」を組織化してきた。
一般民衆の生活のなかに、手近なところに、合法的に銃などの殺傷兵器が流通・拡散したままになっていることが、権力・利害闘争の過剰な暴力化を招いている。
いきおい、国内の権力闘争だけでなく、対外的・世界的な政治=軍事政策にも安易に過剰な暴力を持ち込む傾向が根強く存在しているようにも見える。