さて、映画『JFK』は、大統領暗殺事件の政治的背景を描いている。だが、ケネディ暗殺の真相は闇のなかに埋もれたままだ。
それにしても、ケネディの抹殺を狙った勢力にとっては、現職の大統領を低劣な暴力で排除しなければならないほどの窮地あるいは危機に追い込まれていた――少なくとも、首謀者は主観的には、そう考えたという事情は推察できる。
ということは、暗殺を企図する側にとっては、そこまで追い詰められている考えるだけの危機感によって、そういう行動を迫られていることになる。つまりは、ケネディが大統領執務室にいる限り、自分たちの現在または将来の優越・優位が奪われてしまいかねない、それを避けるためには物理的抹殺以外に方法はない、という焦燥や切迫があるわけだ。
ケネディが実行しようとしていたいかなる政策が、暗殺首謀者となった人びとをそこまで追い込んだのだろうか。大統領暗殺事件は、その辺の利害関係・因果関係について特定できないがゆえに、政治的背景や首謀者について絞り切れないということになる。
ところで、特定の暗殺事件をめぐっては、暗殺がおこなわれた場の利害関係・敵対関係を分析すれば、首謀者や目的、背景をある程度までは絞り込むことができるだろう。
とはいえ、この利害対立や権力闘争がたった1つに限定できるわけではないということも多い。暗殺事件を誘発したであろういくつかの原因を背景として語る物語はできるだろう。
そこで、映像作品は、その真相――ありそうな現実――について仮説を組み立てて、物語を構成することになる。
ところが、ケネディ暗殺の背景には、まさにきわめて複雑に錯綜し重合した利害や力関係の的対や絡み合いがあったから、真相の概要すら絞り切れないのだ。
そこで映画『JFK』は、ドキュメンタリー風のスタイルで物語を構成し、実行犯の選定ないし実行段階についてはマフィアなどの犯罪組織が絡んだかもしれないが、暗殺の最も主要な原因=動機は、ケネディを大統領に仕立て上げた権力機構の中枢そのものの内部にある、という視点を打ち出している。
そうはいっても、大統領府や連邦政府の内部と周囲には、いくつものインナーサークルの集合が組織されている。そのいずれが暗殺を企図したかは、大きな謎だ。
ケネディ暗殺事件では、実行犯被疑者――または最重要参考人――としてオズワルドが拘束されたが、彼に対する尋問や背景・動機調査がおこなわれる前にその被疑者もまた謀殺されてしまった。
被疑者が事件の真相解明の端緒・糸口になるがゆえに殺されたのか、それともダミー容疑者とされた人物を葬ることで、「被疑者死亡」という形で捜査を終結させるために殺害したのか、これについても謎が残されたままだ。
結局のところ『JFK』は、新たな視点で大統領暗殺事件の真相に迫る物語を描いたのではなく、従来のさまざまな推測や臆説を整理して検証するという作品だった。
しかしながら、暗殺事件を描いた映像物語の多くは、事態を思い切って単純化して示すことで成功している。事の真相がかなり解明されている事件についてもまた、わかりやすく核心を単純化して提示することになる。観客の心理のうちで「問題が解決」し、カタルシスのきっかけになるように。