さて、フランス内部の事情に戻ろう。
フランスは戦後、国内産業と貿易の荒廃から立ち直るために、主要産業を国有化した。産業支配の装置はナチスが構築していたから、その枠組みや残骸を利用すればよかった。復興と経済成長のために有力な工業資本はドゥゴール政権の周囲に結集していた。ということは、重化学電気機械工業というような中心的産業では、個別諸資本や諸地方間の利害や行動スタイルの分裂や対立の懸念がきわめて小さくて済んだ。
だが、問題は周縁的産業や老朽化した弱小産業、古びて時代遅れになった軍組織と政界にあった。
もっとも、国内農業では、ヨーロッパ共通農業政策(保護)や共同市場の開放・優遇――中央政府が交渉の取りまとめ役=窓口となっていた――によって、中央政府の政策への統合・包摂はほぼ完全に達成できた。これ以降、フランスの農業は、EECの財政補助成策なしには成り立たなくなる。
ところが、アルジェ植民地のプランターや観光・娯楽産業、そしてそれらと利権癒着した軍部・政府部内の守旧派勢力をどうするか。ドゥゴール政権の頭痛のタネは、そこにあった。というのも、それらの勢力は保守強硬派として、それまでドゥゴール政権の強固な支持基盤の一角をなしていたからだ。とはいえ、ヨーロッパ統合の進展に合わせた国民的規模での産業の近代化や国家財政の健全化のためには、むしろ除去・整理すべき部門でもあった。
つまり総じて、戦争直後の復興過程がようやく一段落して、フランス共和国のレジームと国家としての経済運営をどのようにしていくか、という問題に答えを見つける期限が迫っていたということになる。それが、1950年代末の状況だった。
ナチス占領からの解放後、再建された共和国のレジームは、じつは「出来合い」「寄せ集め」のドゥゴール政権で何とか間に合わせてきたというのが実情だった。
ドゥゴールは、戦争中、ナチスに抵抗する反乱、解放闘争の「英雄」だった。だが、実際のところ、彼は卓越した指導者というよりも、むしろ立ち回りの巧妙なパフォーマー、「役者政治家」だった。注目の的となる政治舞台での「はったり」や「賭け」のほとんどが運よく成功した。
戦争中から戦争直後にかけての荒廃と混乱のなかで、一般民衆や有力者やメディアなどの要求や願望が入り混じっていたので、権力を弱めていたエリート層は、「解放の英雄ドゥゴール」という幻影=虚像を仕立て上げていくしかなかったのだ。
ドゥゴール自身、そういう願望や期待に応えての振る舞いを演じる能力があった。世界ヘゲモニーを掌握したアメリカに対抗して、見せ方として、フランスの独自の利害や立場を対置して、NATOなどの軍事組織でも独立の立場を貫いた。そして運よく、荒廃した産業やインフラストラクチャーの――国有化・国営化という形での――再建という火急の課題では、保守勢力から共産党まで、政策や路線について大きな差異・対立はなかった。というよりも、対立の余地がなかった。
ところが、財政=金融面におけるアメリカの戦後復興支援に誘導されながら復興がほぼ終了して、いまや電気、石油化学、機械・金属などの先端工業部門の急速な経済成長が始まってみると、ドゥゴール政権を支えていた古臭い政治的同盟はむしろ邪魔になってきた。