民主主義を標榜する西ヨーロッパ諸国の植民地支配の世界レジームは、まさに国際関係における民主主義に反するがゆえに全面的に崩壊していく時代だった。ただし、軍事独裁国家のエスパーニャとポルトゥガルは、その後も強硬に植民地支配を維持した。
フランス大統領ドゥゴールは、第5共和政を、このような植民地支配、すなわち直接的暴力による経済的剰余の収奪のメカニズムを除去しながら、世界市場での優位と経済成長を維持することができるようなレジームとして構築していかなければならなかった。
というわけで、フランスでは、「ポスト植民地主義」時代の国際的戦略・政策をめぐって支配諸階級内部に深刻な対立や亀裂を抱え込むことになった。焦点となったのは、アルジェリアだった。
フランスにとって、地中海のすぐ対岸にあるアルジェは、自分たちの裏庭どころか前庭のようなものだった。これまでに多数の植民者が移住し、フランス本国と直結した濃密な政治的・経済的関係を築き上げていた。
とりわけ、新たなエネルギー源として石油の採掘・開発がめざましく発展しようとしていた。1960年以降の世界経済では、石油権益の掌握が競争優位のために決定的に重要だった。とはいえ、この新たな分野での利害対立よりも、より古い時代に属す分野、すなわち植民者が経営するプランテイション農業や観光産業――賭博・悦楽ビズネスも含む――や軍部などの利害の保護を続けるか否かが、政治的対立の焦点となっていた。
ということは、石油開発や港湾・都市開発などでのフランスの支配ないし優越は、開発援助や金融支援、技術協力などで、その後も強固に維持される見込みが立っていたわけだ。その根幹が、EECにあった。
EECは、旧植民地・旧属領から独立したアフリカや中東の新興諸国をヨーロッパを中核とする経済的・金融的同盟(連携関係)に組織化していく政策を強力に打ち出していたからだ。
そして、フランス国家(国民)にとって、ドゥゴール政権が旗印と何よりも重視してきた「国家の威信」というものが、主観的(政治的イデオロギー)には大きな重しになっていた。
先の戦争でナチスドイツに占領され蹂躙、破壊され、戦後の出発では荒廃から復興するために、膨大な債務・借款をかかえているがゆえに、さらにアメリカの援助を請わねばならなかったことが、心的外傷になっていたのかもしれない。つまりは、フランスは軍事的にも経済的=財政的にももはや自立的な国家たりえず、アメリカの覇権にしたがうしか生き残りの道はないということだ。しかし、外形的には国家の威信は保ち続けなければならない。
国家の主要産業ではない植民者のプランテイションや観光(賭博・売春)産業などの利権をどうするか、この問題は、じつはキューバ問題でのアメリカのディレンマでもあった。
フランス国民はアメリカよりも賢かった。ドゥゴールは、軍部強硬派と頑迷な植民者の守旧的利害を放棄したのだから。アメリカは、政策的選択を誤った結果、キューバをソ連陣営に追いやり、半世紀後まで今だに紛糾し続けてきた。
カストロは、その手記で明言しているように、革命当初は、植民地から独立したアメリカ型のレジームをめざしていた。社会主義ではなかったのだ。だが、アメリカが革命を押しつぶしにかかり危機に瀕したところに、ソ連が甘言を弄して接近した。冷戦構造のなかでキューバはそれに同盟し、社会主義陣営に立つしかなくなった。
おのれの足元はよく見えないものだ。
アメリカは、フランス大統領にアルジェの独立をねじ込んだ。そのために硬軟両様の圧力をおよぼし続けた。アメリカに対する巨額の借款――その後の援助も含む――の返済条件をめぐる脅し、OECDにおけるフランスの扱い、EECとの貿易協定など、譲歩と威嚇の手段を総動員した。
その意味では、アメリカはフランスの植民地主義の放棄のために賢明な政治的選択をした。だが、「自分の裏庭」の問題では大失態を演じてしまったようだ。覇権国家アメリカに助言できる国家は存在しなかった。
さらに、フランスが撤退したヴェトナムでは、左翼勢力が勢力を拡大し始めると、冷戦思想に染まったアメリカは独立闘争に介入して、やがて泥沼の戦争にはまり込み、袋小路に迷い込むことになる。