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マイケルが採用した闘争方法をめぐる思想は、やがて中国共産党(毛沢東派)による「人民戦争(戦闘)理論」にまで行きつく。
すなわち、革命政党に結集した戦闘員が民衆の海のなかに紛れ込み、敵の要人や要衝に接近して殺戮や破壊工作をおこない、ふたたび「民衆の海(無数の人民)」のなかに姿を隠す、という闘争形態だ。もとより、民衆の多数が武装して敵=支配階級を包囲する、という意味合いもあるが。
だが、民衆のなかに紛れるという方法は、「民衆を楯にする」ということにもなる。それゆえ、この形態での闘争にともなう一般民衆の犠牲は「大義のために避けられない犠牲」「必要な犠牲」と位置づけられることになる。民衆の利益のためになる闘争を指導しているのだから、闘争によって生じる犠牲はやむを得ないというわけだ。
この方法には、前衛党がつねに民衆の利害や要求を先取りし、指導し、利用するという、鼻もちならないエリート主義があるような気がする。
そして、民衆を大規模な戦乱に巻き込む危険性、あるいは敵側からの民衆に対する無差別な報復を呼び起こしてしまう危険性がともなう。
だが、マイケルは暗殺作戦に厳しい自己抑制=限定をかけていた。一時的、緊急避難的な作戦として限定していたのだ。憎悪と報復の連鎖の悪循環に引きずり込まれないために。
暗殺という「卑劣な闘争形態」は、敵によって追い込まれた――強いられた――作戦であって、敵に恐怖感を与え、敵の優越感に亀裂を与え、凝集・結集を突き崩すためにのみ用いるのだ、と。したがって、この作戦を長期的に継続することを意図していなかった。というよりも、できなかっただろう。
ほかに目的を追求するただ手がなく「強いられた選択」であるとはいえ、それは主体的な選択であることには変わりがない。
1920年代初頭の状況では、その読み=意図は当たっていた。限られた局面に限定して適用する作戦だった。
ところが、その半世紀後、1968年〜70年代の北アイアランドでのIRA過激派のテロ作戦は際限なく進み自己目的化し、泥沼に陥ってしまうことになる。
そして、マイケル・コリンズは結局、自らが卑劣な暗殺によって命を失うことになった。
マイケル・コリンズが仕かけた暗殺作戦による打撃・被害の大きさに鑑みて、ブリテン政府は――国家としての独立は認めないけれども――アイアランドに相対的な自治権を認め、そのための交渉を開始した。ところが、独立派のうち強硬派は、国家としての全面的な独立を求めていて、マイケルたちと対立し、ついに内戦となってしまった。
ブリテンの保護下での「アイアランド自由国」の自治権獲得に反対するデヴァレラ派との内戦では、マイケル率いる自治政府側が圧倒的な優位に立っていた。だが、もともとは仲間だった組織の分裂と敵対を解消しようと、マイケルは焦っていた。
そのため、デヴァレラ派の末端組織=地方組織の「跳ね上がり分子」の罠にはまってしまった。
反対派の過激な若者集団は、この戦争の政治的意味合いを理解していなかった。激情に駆られ、敵愾心に駆りて立てられ、目先の敵を滅ぼして溜飲を下げるというような低劣な政治的判断で、マイケルをおびき出して殺してしまった。
デヴァレラ自身は、マイケル・コリンズの暗殺については考えたこともなかったようで、暗殺は過激化した末端組織の跳ね上がり分子の暴走の結果だったようだ。
だが、結局は、反乱派は数か月後にブリテンの後援を受けた自由国政府軍によって全面的に鎮圧されてしまった。してみれば、マイケルを暗殺した政治的意味はどこにもなかった。単なる憎悪の発散で終わってしまった。有能な指導者を葬り去っただけだった。
その後、デヴァレラ派は敗北を認め、やがて自治政府レジームの内部での〈選挙制による)合法的な政権獲得と改革をめざすことになる。
という意味では、この暗殺は、急進反乱派の指導部が地方・末端組織までしかるべき統制をなしえていなかった、という組織性の低水準・未熟、失敗の結果だった。そして革命運動や反乱に大衆を動員するための煽動は必ず暴徒化する跳ね上がり分子を生み出し――彼らは突出することが名誉や業績だと見るかから――憎悪の増幅連鎖をもたらす。
マイケルの暗殺は確かにほかならぬ政治的文脈において生じた事件だが、あまりしも悲惨な逸脱現象だった。