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このサイトでは、これまでにいくつかの「暗殺事件または暗殺者」の映像物語を取り上げた。そこで、ここではそれらの物語を材料視して、暗殺事件そのものと、その背後に潜む政治ないし政治史の文脈を読み解き、「謀略の政治史・社会史」という視角から、映像表現とストリー構成ないしプロットを分析してみよう。
この世の中の権力闘争の多くは、重要な局面で「暗殺=謀殺」という事件を生み出してきた。それゆえまた、小説や演劇、映画作品で多くの「暗殺事件」の物語が描かれてきた。
このサイトでも、これまでに暗殺事件を描いた物語をいくつも取り上げてきた。
暗殺事件ないし暗殺者を描く場合、暗殺そのものが主題になることもあれば、暗殺事件が物語の展開・構成上の重大な要因となっていることもあれば、物語の背景として遠望するように描かれることもある。
そこで、今回は、このサイトでまだ扱わなかった作品も含めて、映像にとらえられた「暗殺=謀殺」の意味や背景となる状況・文脈、そしてプロットなどについて考えてみる。
ところで、「映像の表現方法」ジャンルでは、以前に、映像に描かれた「陰謀というもの」について分析を試みた⇒「陰謀の解剖学」参照。暗殺は、この「陰謀=謀略」の一環として、その全体構図のなかに含まれているので、あるいは重なり合い補い合う要素も多いかもしれない。
そこで、陰謀=謀略という者について、私がどのような見方をしているのかについては、そちらの記事を参照していただければ幸いだ。
まず、ここで扱う「暗殺=謀殺」という事象はどういうものなのか、私なりに意味を確定しておこう。
事典によれば、暗殺 assassination とは、要するに「明確な意図をもって密かに狙って人を殺すこと」だという。この意味では犯罪学や刑事法にいう「殺人(
murder )」、故意の殺人とあまり変わりない。ともに謀殺、つまり目的意識的に他社の命を奪う行為ということになる。
ゲルマン系の語源的文脈では、英語の「マーダー」やドイツ語の「メルダー Mörder 」とは神の手によってではなく人の意思または手によって「死を与えること」という意味らしい。それはさらにラテン語系の「死
morte (伊), muerte (西), mort (仏) 」から来たようだ――これらは自然死を含む。
さて固有の刑事犯罪としての殺人は、その構成要件として「明白な動機」「殺害の意図」を掲げている。そして、世の習いとして、殺人を意図する者が相手にその意図を知られないようにするので、密かに狙う――あるいは機会を狙っていて、機会が訪れたら咄嗟に殺害行為におよぶということもある――ことが殺人事件のいわば「常態」となる。
ただし、殺意(強い憎悪)の一定時間の継続や計画、企図、道具や状況の準備などが、動機の裏づけとなる場合も多い。
もとより、咄嗟の激情や一時的で突発的な行為による殺害・致死とは別のものである。
では、一般的な殺人と、ここでいう暗殺=謀殺とを切り分ける要因とは何か。
私としては、個人的な恨みというよりも権力闘争の闘争形態・手段のなかに含まれるという要因を支配的な要因としてあげたい。この権力闘争には、力関係での優越や支配――劣位の回避――を求める場合もあれば、競争のなかでの「自己保身」という場合もあろう。
いずれにせよ、力の序列=ヒエラルヒーのなかでの地位低落を避けて、優位を維持、増進したいという意図や目的意識が、少なくとも、その首謀者にあるということだ。
つまりは、暗殺=謀殺とは「政治的現象」なのである。
ただし、それ自体として「戦争」とは別の現象と考える。
戦争については、ある政治体(軍事単位)が敵対相手への劣位を避けるために相手の攻撃能力を破壊する行動の総体が戦争である、というフォン・クラウゼヴィッツの有名な規定がある。その意味では、戦争は――諸国家体系のなかでの――政治の拡張現象であるということになる。
だが、戦争の発動者は「敵対者の武力の撃滅」を狙うということから、戦争は全体として――敵対者の攻撃意図を挫くほどの規模の――大量殺戮・大量破壊を企図することになる。
だから、力関係や局面の変移・転換を目的とするという点では、国家の支配者が命じる場合の暗殺と似ているが、別の現象と見なしておく。道義論上は、同じものとして批判できるが。
ここで扱う暗殺は、1回の襲撃で1人ないし少数者を狙う謀意にもとづく殺害行為である。
もとより、戦争の行為のなかに、状況転換の手段として敵対国家の指導者や有力者の暗殺を遂行する局面はある。暗殺が戦争という事象全体の局部的な手段となるのだが、それは戦争そのものないし全体ではない。
話が物騒になったが、これも1つの社会現象を社会史的に分析するためである。容赦を願う。暗殺や戦争という現象を考察するのは、社会の平穏や平和のために、その逆の極限現象を客観的に考察するためだ。
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