1940年初夏までに、ナチス・ドイツ軍は西ヨーロッパの大半を制圧し、ブリテンへの攻撃準備を整えていた。ヒトラーは、ブリテン諸島への侵攻の構えを見せながら、ブリテンに講和交渉を迫った。だが、この要求をブリテンは強硬に突っぱねた。こうして、ドイツの航空戦力によるブリテン本土爆撃作戦が始まった。
この「ブリテンの戦い」は、英独双方の力関係と状況についての「計算違い」「目算誤り」から始まった一連の戦闘だった。
ところで、ブリテン空軍は戦闘機乗りや航空管制官、戦闘機設計士などがテクノクラートであることから、すぐれて貴族主義的な軍事組織だった。多かれ少なかれ家系的・血縁的に結びついたヨーロッパ諸国の貴族層のあいだの古くさい騎士精神を引きずっていた。
そういう伝統を最も色濃く残していたのがブリテン空軍だった。だから、戦況に対する見方も冷静でシニカルだった。だから、ドイツの講和要求を突っぱねたものの、ドイツ側の航空戦力をむしろ過大に見積もっていた。
であるがゆえに、緒戦での手痛い打撃や被害の大きさにも動じず、高度なチェスゲイムのように「次の次の一手」への準備を着実に進め、半年後(1940年10月)にはドイツに対する圧倒的優位を手に入れていた。
とはいえ、ドイツ空軍の攻撃が激化し、レーダー基地、空軍基地などの軍事施設攻撃から、ロンドン空爆へと破壊が深刻化していくうちにブリテン空軍は追いつめられ、ひどい消耗戦を強いられ、空軍の貴族主義的な雰囲気も失われていく。
戦史では「バトゥル・オヴ・ブリテン」とは、1940年初夏から秋までのブリテン本土(諸島)をめぐる王国空軍( Royal Air
Force : RAF )とドイツ空軍( Luftwaffe : LW )との攻防戦のこと。
言葉の由来は、1940年6月18日のブリテン外相、ウィンストン・チャーチルの声明で、そのときチャーチルは「フランスの戦いは終わった。いまやブリテンの戦いが始まった」と述べた。ここで「の」とは「をめぐる」という意味合いだ。
フランスの戦いの終わりとは、ナチスドイツによる電撃戦が成功して、西ヨーロッパの要衝、フランスの征服=占領が成し遂げられてしまった、という状況認識だ。そして、電撃戦によってドイツがブリテンに突きつけた講和交渉を断固拒否したがゆえに、ドイツ軍による容赦のないブリテン本土攻撃が始まりつつある。われわれは、最後(軍事力と継戦能力が尽きる)まで戦いとおす、という決意の表明であった。
ナチスドイツ側から見ると、バトゥル・オヴ・ブリテンとはゼーレーヴェン作戦の第一段階を意味するはずだったが、その失敗でこの作戦は頓挫し、ヨーロッパと地中海、北アフリカなど全戦線における力関係の転換が始まった。つまりドイツの後退へと結びついていく最初の兆候だった。
この「ブリテン本土決戦」はもっぱら双方の航空(防空)戦力の全面衝突という形で展開される。だが、この戦いでは、英独双方とも彼我の力関係を正確につかんではいなかった。
ブリテン軍は、自らの空軍の戦闘能力や航空機の生産能力、継戦能力を過小評価していた。そして、ドイツ側には自空軍力の過大評価・過信があった。
そもそも、ナチスドイツの電撃戦そのものについてさしたる障碍なしに開始・展開するのを許してしまった最大の要因の1つが、ブリテン政府=軍のヨーロッパ情勢の読み違いによるものだった。
一方、ドイツは、電撃戦の当初の戦略目標を超えて戦線を拡張し、破綻と疲弊の原因を自ら生み出していった。
* 第2次世界戦争ヨーロッパ戦線の推移については、このブログの《史上最大の作戦》に概略を述べているので、参照してほしい。ここでは、ブリテンの戦い(史上最大の空戦)をめぐる状況に関する事項を取り上げる。