こうして、未曾有の「空の消耗戦」が続いた。
ロンドンは炎に包まれ、破壊され、瓦礫の山が築かれた。市民たちは、空襲警報が出るとともに地下鉄や防空壕に退避した。
一方、ドイツ空軍の被害もまた甚大だった。1940年8月末からは、ついに損耗した爆撃機の数の回復が困難になり始めた。しかも、ヨーロッパ全体に拡大したドイツの戦線を補強し、綻びを取り繕うために、航空戦力へのニーズは拡大した。
ゆえに、しだいにロンドン空爆に投入される爆撃隊(そして護衛戦闘機隊)の規模は小さくなっていった。それでもドイツは空爆をやめなかった。
政治的プロパガンダ効果が大きかったからだ。破壊され、炎に包まれるブリテンの首都のありさまは、「ブリテンの危機」を民衆に宣伝するにはもってこいの材料だった。
さらに、ナチスとヒトラー自身も、空軍戦力がどんどん後退していく状況のなかで、ロンドン空爆の効果に「よりすがっている」面もあった。
他方で、ブリテンの側は、ロンドンの悲惨な状況を冷静に見ていた。というよりも、ドイツが「戦果の見せかけ」を重視するあまり、ロンドン空爆に躍起になることに――皮肉な気分で――ほくそえんでいた。
というのは、ブリテン空軍の基地(格納庫)や飛行場への攻撃が一気に減少したからだった。つまりは、ロンドン空爆に気を取られて、ドイツ空軍は、ブリテンの航空戦力を直接破壊する作戦を大きく後退させたからだ。
映像では、郊外の司令部にいるダウディング大将が、部下の少将とともにロンドン方面の空を眺めて会話するシーンが描かれる。ドイツの大爆撃隊が首都に向けて飛来しようとしていた。その様子を見た少将が嘆息した。
「やつらはまたロンドンに襲いかかろうとしている」
だが、大将は冷静に答えた。 「悲惨なものだ。だがしかし、ロンドンに敵の攻撃が集中しているあいだに、われわれは戦力を回復して立て直すことができる。それが、われわれの狙いだ」
そのとおり、ブリテン空軍は、8月末から9月をつうじて、急速に戦力を回復していた。短期集中訓練で多くの飛行士を育成し、次々に技術的改良を加えたスピットファイアを本土防衛戦闘機部隊に配置していった。
その意味では、ロンドンとその住民の生活を犠牲にして、国家の防衛システムの再編強化を冷徹に推し進めたことになる。明白な階級社会なればこその、エリートの戦略的な判断ともいえる。
航空爆撃という形態で―軍事施設だけでなく――敵国住民を大量殺戮し都市の社会的機能を破壊する戦術が出現してから、国家と軍の首脳は、戦争目的のために自国内の住民にどこまで犠牲を受容させるかという残酷な判断をするようになった。もちろん、エリートや国家指導者たちは、爆撃のリスクを背負わされた一般庶民とはかけ離れた安全な退避場所に避難して、「戦争を指導する」のだが。
その意味では、現代世界における戦争発動は「国民を守る」という建前の「しらじらしさ」や虚偽性をいよいよ膨らませることになった。国家と軍の首脳は、一般住民ではなく主要(戦略的に重要と位置づけられた)な国家装置や経済的支配装置、総じて権力装置を守るのだ。