ただし、1941年5月には、有名な「ロンドン空襲」が実行され、甚大な被害をもたらされた。この事件の位置づけをめぐって大きな評価の対立がある。
その時点まで、ドイツ空軍はブリテン本土への空爆態勢をとることができたのだ。ただし、その空爆でドイツ空軍は激甚な航空機と人員の被害損耗を受けたわけで、そのダメイジからの回復することはなく、それが西部戦線におけるドイツの航空戦力の崩壊の序曲=開始となったことも確かだ。
言い換えれば、見栄っ張りのゲーリングやヒトラーの指揮によって「悔し紛れ」の復讐心で無謀な攻撃を仕かけて、虎の子の航空戦力を失ってしまったという認識なのだろう。
ブリテン軍から見れば、ロンドンの被害は量的には甚大だが、主要な軍事および生産能力の防護態勢は確立されていたということなのだろう。つまりは、質的な(戦局の構造的な)転換の位相はすでに1940年10月末には現れていたという評価だ。
このあとの推移について、ブリテン空軍の公式記録は、10月中にブリテン本土上空での優位を回復していくと評価している。これは、攻撃の標的となったブリテン本土の政府=軍および市民の視点から見て、爆撃部隊への防衛態勢を整えたことから、航空爆撃による被害の水準が低下していく転換点となったという評価なのだろう。
これには、ドイツ空軍の爆撃機と戦闘機の深甚な損害という事態がともなっている。
これに対して、ドイツはその後も爆撃作戦を持続するものの、ブリテンの迎撃編隊によって被害は甚大になり、ついにブリテンへの航空機による攻撃=爆撃ができなくなるまでの時期も、ブリテン攻防戦に含めている。
しかし、制空権の転換はきわめて劇的で、1941年になるとブリテン=連合軍は北海とバルト海で制空権だけでなく制海権まで確保するようになる。そして、1940年に始まったドイツ本土空爆だが、ドイツが北海・バルト海空域での戦力を失い始めたため、42年にはドイツ本土への大規模な空爆も開始される。
いずれにせよ、ドイツによって開始され、のちにブリテンとアメリカがより系統的に発展させた「都市空爆」は、敵国の経済的再生産体系(人口)の系統的な破壊を直接めざす残酷な作戦手段だ。
戦争の目的が征服や支配から抜け出て、戦争目的の手段であった「敵対者の殲滅」そのものが自己目的化してしまったことは確かだ。陣営の双方で《核爆弾の開発》が進められていた。
フォン・クラウゼヴィッツによれば、戦争の本質的な目的は敵対者の攻撃能力の撃滅(破壊)とうことになるが、近代戦では、軍事的攻撃能力は経済的・財政的能力や人口、工業力、補給体系に基礎づけられているかぎり、敵側の再生産体系(社会全体)の破壊というところまでエスカレイトしてしまうのは、必然的かもしれない。
バトゥル・オヴ・ブリテンの戦史上の流れを、以上に見てきた。
それでは、映画に描かれたシークェンスを追いかけながら、ブリテン攻防航空戦の動きを見ていこう。映像はブリテン側の公式の戦史理解に沿って制作されている。1940年のフランスからの撤退から、開港の戦い、沿岸飛行場の攻撃、本土(ロンドン)爆撃と防空戦などををめぐって10月までのできごとを描いている。