ブリテンはナチスドイツの講和交渉の要求を峻拒したとはいえ、軍事的防衛機構、とりわけ本土の航空戦における迎撃態勢を整えてはいなかった。にもかかわらず、政府は空軍司令部に対してただちに防空作戦構想を示すよう求めた。
RAF大将にして戦闘機部門司令官、ヒュー・ダウディングは内閣に対して、対ドイツ本土防衛計画書を提出した。その内容は、深刻な危機感が示されていた。
計画書の要点は、つまるところ「とにかく時間を稼げ」ということだった。当面は一方的かつ場当たり的な防戦によって時間を稼ぎ、防衛体制の不備を取り繕いながら、航空防衛戦力の強化と再編を進めるしかない、という方針だった。
ダウディングの評価では、戦闘機の戦力比では「ドイツ4:ブリテン1」ということだった。とりわけ深刻なのは、訓練された戦闘機操縦士の決定的な不足だった。時間稼ぎのあいだに飛行士の育成が急務となった。が、後手に回って受け身の防戦のなかで有能な飛行士たちが重傷を負ったり、死亡していった。
また、本格的な本土防衛のための戦闘機編隊の組み直しが求められていた。
映像では、ブリテン本島を4つの防衛空域に分けて、それを12の戦闘機隊グループが分担してカヴァーする作戦が描かれている。
4つの防衛空域とは、
@イーストアングリア(ロンドン)を含む南東部
Aブリストル、サマセット、ウェイルズを含む南西部
Bヨークシャーを中心とするイングランド北東部
Cスコットランド
だった。
防衛空域ごとに、数個の飛行中隊(6機編成)からなる連隊数個を配備するというものだった。
* ダウディングの航空戦力評価は、正確ではなかった。というのも、ドイツの航空戦力のすべてがブリテン攻撃に投入されるわけではなかったからだ。そして、ドイツ空軍にとっても訓練された飛行士の数の限界は重くのしかかっていた。
実際には、ドイツとブリテンの戦力比は1940年7月の時点で、1.6:1くらいだったという。その後の人員損耗で、戦力比は9月までには互角になったと見られる。
7月から始まった海峡の戦いがしだいに激しさを増していくのにともない、ブリテン本土の基地や飛行場から反撃とか艦船護衛のために飛び立った戦闘機と飛行士に被害が目立つようになった。
そして、ドイツの爆撃機は頻繁にブリテン島上空を襲うようになった。
ドイツ空軍のユンカース Ju.87 /シュトゥーカ( Sturzkampfflügzeug : 急降下爆撃戦闘機の略称)の編隊が、ブリテン南部海岸沿いの飛行場、航空基地、電探施設基地を襲った。また、メッサーシュミット
Bf.109E や Bf.110 も攻撃に参加した。
電探基地は破壊され、飛行場は穴だらけになり、航空機は破壊され、整備工場や格納庫、地上の指令基地も打撃を受けた。
レイダー施設が再建されるまで、しばらくブリテン軍は目測によって敵機来襲を知覚するしかなかった。ゆえに、迎撃体勢は遅れ、反撃用の戦闘機の出撃準備・離陸も遅れた。上空を抑えられたままで、出撃するから、被害も大きかった。
しかし、電探網の再建とともにより迅速な迎撃体勢が取れるようになった。とはいえ、引き続き物的・人的損耗は大きかった。