さて、すでに見たとおり、ドイツ空軍によるブリテン空爆は執拗に続けられたが、1940年9月半ばには戦局の変化が現れ始めた。ドイツの航空戦力の明らかな消耗、後退が観測されるようになった。
9月15日、ドイツ空軍は大編隊での爆撃を強行した。ヒトラーが前々から表明していた「ブリテンへの侵攻」の突破口を確保するための乾坤一擲の襲撃だった。
ところが、ブリテン空軍もまた迎撃体勢を拡充していた。
ゆえに、この日の空戦は、戦史上最も熾烈で多くの犠牲者、負傷者、物的損害をもたらすものだった。撃墜された航空機は、ドイツ空軍側が60、対するブリテン空軍側が26。
ことにドイツ側では、爆撃機の被害が大きすぎて、大規模な爆撃を持続させることができなくなってしまった。戦闘機の被害も大きかったため、虎の子の爆撃機を護衛することもままならなくなってしまった。
これ以後、ドイツ空軍は昼間の爆撃を極力控えて、夜間爆撃をおこなうしかなくなった。
ところで、ブリテン空軍が公表するドイツ機の撃墜数が水増し誇張されている、という趣旨の声明をドイツ軍が世界中のメディアに送りつけた。
実際には、ブリテンの戦果公表は、ほかのどの国家のものよりも客観的だった。ブリテン人の数値資料に対するこだわりは、戦争中であっても貫徹したようだ。
とはいえ、ドイツの抗議声明はアメリカの新聞にも掲載された。ブリテンの議会や政府関係者は、その記事にいく分動揺して、空軍当局者に撃墜数の発表に間違いがないか問い合わせた。
それに対するダウディング司令官の答えが振るっている。 「もしわれわれの公表数値が誇張なら、あしたからのドイツ軍の空爆の規模は変わらんでしょうな」
これは、ドイツ空軍の空爆の規模が目に見えて縮小している、威力が衰えてきているという事実を見れば、当然、どちらの側の公表数値が正確か知れるだろうという自信の表れだった。
1940年10月には、少なくともブリテンの空をめぐる攻防戦での戦局の転換が明白になった。そのときチャーチルが発表した声明をもって、この映画は終わる。
「1つの国の存亡の命運が、これほど少数の人びとの奮闘貢献に依存するという事態は、これまで一度もなかった」(国家としてのブリテンの生き残りにとって、空軍の犠牲と努力は決定的に大きかった、という賛辞)
ヒトラーは、空爆によって突破口を開いてブリテンに直接侵攻するという作戦を立てて公表したが、その時期は1940年10月上旬から12月に「延期」され、さらに41年春まで「延期」された。
結局、ブリテン侵攻は永遠に延期されたまま、ナチスドイツは没落していくことになった。それまで神か天才のように讃えられていたヒトラーの軍事的指導力の虚飾や幻想は、またたくまにいたるところで崩れ去っていくことになった。
伸び切ったドイツ軍の戦線(西ヨーロッパ、地中海、アフリカ、東ヨーロッパ、バルカン、カフカーズ)のいたるところで崩壊が始まり、縮小して、ついに国境内にまで連合軍が侵攻するようになっていく。