さて、冷戦時代には、すぐれた国際政治スリラー作家たち――言論表現の自由がある西側の方が圧倒的に多い――が、究極的には自由陣営に与しながらも、西側陣営の醜悪・卑劣な作戦や手法をも描き出していた。そして、国家権力装置としての軍や情報機関の暴走や腐敗、内部での権力闘争を赤裸々に描いていた。
それは、社会の資源の分配で最優位を与えられた政府組織は、最も強力な権益や利権の分配装置であるかぎり、そこには必然的に腐敗や暴走、専断専横にはしる危険・潜在的傾向がある、という批判精神の表れでもあった。
国際政治スリラーの読者の多くが、そういう批判精神を求めていたからで、それは市場ニーズに答えたスタイルでもあった。
暴力や謀略、権謀術数の描写は、わくわくする面白みでもあったが、同時に、リアルな描写で冷戦戦略・戦術を展開駆使する国家装置の「危うさ」を警告していた。民主主義的文化における、いわば独特の「フィードバック」回路をなしていた。
おそらくは、ラドラムの原作「ボーン・シリーズ」も一端にそうした意味合いがあったであろう。
ところが、国際政治スリラーないし国際諜報戦スリラーの物語の構造というか状況設定、人物像は、1980年代半ばから末にかけてで大きな転換を迎えたように思う。
原因の1つは、間違いなく、冷戦構造の終焉だ。
ソ連・東欧レジームが崩壊消滅していったことで、アメリカを中心とする「西側レジームの勝利」「資本主義の勝利」によって、国際政治や政界のパウワーゲイムの運動法則が決定的に転換してしまったのだ。
だが、実際には、事態はことさら「西側=資本主義の勝利」と言うべきものではなかった、というのが私の見方だ。というのも、ソ連・東欧レジームは、もともと資本主義的世界経済の内部での特殊な地域レジームでしかなったし、起きた事柄は、西側が勝利したというよりも、東側の自滅、自己崩壊だったからだ。
「勝者なき終戦(冷戦の終焉)」だった。これについて、アメリカは自己の戦略の勝利だと宣言することはできないはずだった。だが、レイガン政権は高らかにアメリカの冷戦戦略の勝利を宣言した。
では、冷戦構造が解体したのち、ただ1つ生き残ったアメリカという極を軸として世界の権力構造が展開しはじめたかというと、違っていた。冷戦が米ソの共謀による「共同主観」の構造だったがゆえに、ソ連の崩壊はアメリカの最優位を持続させてきた価値観をも突き崩し、それまで冷戦の枠組みによって抑え込まれていた紛糾・混乱のさまざまな要因が解放されてしまった。
ハードボイルドの世界では、東西対抗のパウワーゲイムをめぐる物語や事件を扱うものは(過去の歴史を描くものを除いて)消え去っていった。
ともあれ、ソ連・東欧レジームの崩壊で、最優位を占める合州国の権力に対抗して、世界での政治的・イデオロギー的・道徳的な優位の獲得に向けて挑戦することができる「有力な」陣営はなくなった。
もとより、ソ連・東欧は、同じ資本主義的世界システムの内部に存在する特殊なレジームにすぎなかった。だが、見せかけ=幻想としてのカウンターレジーム・対抗価値観(理念)を表出してはいた。ソ連側が虚飾の「理想」を対置することで、アメリカの民主主義は緊張感と自己抑制が求められ、より高い理想の対案を提起する必要を意識していたようにも見えた。
その外観上のライヴァルがあるということで、アメリカ(の市民たち)は自らのレジームについての健全な内部批判、自己批判を持続していた。知的・文化的・道徳上の優越性をより自覚的に追求し、表現していた。
もちろん、それは表向き(公式上)のことであって、アメリカはヴェトナム戦争をおこない、中南米での抑圧にも加担していた。