マイケルは、ハバナのホテルで、こうしたアメリカ巨大資本のお歴々経営陣と引き合わされます。取り持ったのは、フロリダのドン、ロスです。
しかし、マイケルが訪れたとき、おりしもキューバは革命前夜。革命運動諸派と政府・軍との闘争の真っただ中です。
視察の途中で彼はたまたま、官憲に追い詰められた反乱派=革命派の若者が官憲の幹部を道連れに自爆死する光景を目撃します。
この革命騒ぎのなかで浮かび上がったのは、政権側の高官や軍人、政財界人が権力におごりきり腐敗した姿でした。
民衆の困窮と悲惨をかえりみることもなく、アメリカの言いなりになって民衆を弾圧し、利権をむさぼる・・・。これでは、当局は民衆の抵抗や反乱を抑え切れまい、と判断しました。
もっとも、この腐敗構造につけ込んで、アメリカ大企業とマフィアは利権を獲得しようとしたのですが。
その姿に比べて、革命派=独立派の自己犠牲の精神や倫理観と規律、目的意識性の高さ。
この2つの落差に注目したマイケルは、政権の崩壊と革命派の勝利は必然と見なします。ただちにキューバからの撤退、大規模投資の断念を決め、革命騒ぎに沸くハバナを後にします。
ここでは、コッポラとプーゾは自分たちの視座をマイケルの心情に投影・仮託したのでしょうか。それとも、マイケルがきわめて怜悧な状況判断能力を備えた経営者にしてオルガナイザー、戦略家に成長した姿を描きたかったのでしょうか。
私には、辛辣な歴史家=芸術家としてコッポラは、歴代アメリカ政権のキューバ政策を怜悧に批判している場面に見えます。
いずれにせよ、この作品は、1950〜60年代のアメリカの国際的役割の変動と資本家的企業の歴史の1つの断面を鋭敏にとらえています。並みの国際政治や世界経済の論文よりも、はるかに雄弁に状況を描いているといえます。
マイケルの英断で、コルレオーネ・ファミリーは投資の失敗(大損失)を避けることができて、地位を高めます。というのも、ユダヤ系ファミリーはキューバへの巨額の投資の失敗と利権の喪失によって、凋落してしまうからです。
このあと、つまり1960年代、コルレオーネ・ファミリーは、それまでの単なる犯罪組織=暴力集団から、多様な産業への多角的な投資および直接経営をおこなう金融コングロマリットに、すなわち巨大な資本家的企業へと成長していきます。
そして、アメリカの有力企業の常として、進出先各地方の有力者や政治家、司法関係者、ついには連邦の政財界にまで影響力を及ぼすようになります。
ところがそうなれば、敵対するマフィア組織からの挑戦・攻撃だけでなく、政財界の反対派からの批判、そして暴力や犯罪、汚職や腐敗などに反対する一般市民の運動(市民団体)による告発・非難を受ける立場になります。
しかし、ファミリー事業と組織の半分を暴力組織が占めるという体質は克服できません。むしろ、マイケルもまたこの体質に深くはまり込んでしまいました。
やがて、連邦議会はマフィアなどの組織暴力(organized crimes)を追及する特別委員会を組織して、マイケルに召喚状を突きつけ、査問の場に引き出します。
ところが、コルレオーネ・ファミリーは、重要証人にオメルタ(沈黙の掟)を守らせ、委員会の告発を不発にしてしまいます。
一方、マイケルと結婚し2児をもうけたケイは、大ファミリーのボスとして冷酷になっていく彼を忌まわしく思うようになり、別居し、ついに離婚することになります。そして、マイケルは母の死後、自分を裏切った次兄フレドを葬り去ります。マフィアの冷徹な掟のために、血を分けた兄を殺すのです。
マイケルのクールな戦略眼と鋭敏な状況判断能力は、残念ながら家族への残酷な仕打ちにも容赦なく向けられるのです。
一方では経済的競争と権力闘争での華々しい成功、しかし他方では裏腹の悲劇、つまり家族関係の救いようのない破局。
恐ろしいほど鮮やかなコントラスト。
「これでもか」というほどに悲惨な悲劇を描くイタリア史劇(それはオペラや演劇、人形劇、映画にいかんなく表現されている)の真髄が、コッポラを通してここでもはじけているかのようです。