さらに余談ついでに……
作品の状況設定には反するが、体長100メートルにもなれば、生存寿命はおそらく100年以上、あるいは200年くらいにはなるだろう。生殖可能になるまで成長するのに20年くらいはかかるかもしれない。卵のなかでの孵化までの成長にも数年は要するだろう。
映画のなかで描かれたほどに高度な運動能力があるとすれば、骨格や筋肉にしても相当な密度・強度があるはずで、マシュマロのようにバブリーに膨れた身体ではない。つまり、それなりに時間をかけた成長が必要になるのだ。
そうなると卵殻のなかでの成長でもかなりの密度の濃い細胞増殖が見込まれるうえに、幼獣から成獣になるまでに人間よりも短い時間で済むという話にはならない。
というわけで、ハリウッド版ゴジラの身体設計を突いてみると、ただちに筋立てに破綻が見えてくる。
ハリウッドはゴジラのリアリティを求めたために、ゴジラの発生起原を現生の海イグアナからの突然変異と設定したが、やはり相当無理があるわけだ。どこかで大きくファンタジーの要素を入れないと怪獣映画は成り立たないということだ。
■身体姿勢ではハリウッド版が上■
だが、ゴジラの描き方でハリウッド版の方が優越する要素もある。
ゴジラの体型(骨格・筋肉)と運動様式である。もちろん、地上での巨体の運動をめぐる重力の作用をファンタジックに無視しての話だが。
獣脚類恐竜のように2本の後ろ足を直立させて、身体の前半分と長い尾とをヤジロウベイのように――つり橋のように――バランスさせて歩行するスタイルだ。腰を中心として尾部から頸部までが地面に対して平行で、顔面だけが捕食のための視覚をえるために持ちあがっている姿勢だ。
この身体姿勢は、1970年代半ば以降の恐竜学の研究成果に依拠しているからだ。そして、この姿勢は怪獣の精悍さと凶暴性を強く印象づけるだろう。
ここにはやはり、1954年日本版ゴジラが生まれたときの考古学における恐竜の復元体型・姿勢のイメイジと、1970年代以降の考古学の水準との差が現れているのだろう。
日本版のゴジラは、1880年代のブリテンで始まった古生物学におけるイグアノドンの体型に関するイメイジ、あるいは1960年代までのカルノサウルスの体型イメイジに依存しているのだから、仕方がない。
しかも日本の怪獣映画における特撮技術・撮影では、怪獣は「着ぐるみ」が基本だから、その内部にいる人間にとって安全で動きやすい体型・運動スタイルになるのは、仕方がない。それに、ゴジラの威勢や獰猛さは、人間に近い直立体型の方が表現しやすいだろうし…。
それに、日本人の映像感覚として、腰から上の姿勢が直立している方が鈍重な動きの恐怖が表現できるだろうし……。あのズシン、ズシンという緩慢で鈍重な歩行と地面の揺れ、響きこそが、超巨大怪獣の猛威と恐怖を呼び起こすのだ。そこには日本人の自然観、そして自然観と結びついた宗教観というか信仰観、尊崇精神が込まれれているように思う。
おそらく日本映画人はゴジラの存在感に凶暴性よりも神にも通じる崇高さをたたみ込みたいのではないだろうか。鈍重さ、そして身体そのものによる破壊よりもむしろ放射能火炎による破壊をこそゴジラの究極の存在感とするのは、そういう理由からだろう。
もちろん、日本人が戦争末期に原爆を広島と長崎に投下され火炎をともなう高熱の放射線を浴びたという歴史的経験への眼差しが、そこには潜んでいるともいえるかもしれない。
とはいえ、日本版が生き残り恐竜起源説にもとづいているとすれば、現在の古生物学の認識水準を踏まえないと自家撞着に陥るのも確かではある。鈍重で緩慢な動きがもたらす脅威や畏怖を一方で生かしながら、獣脚類恐竜を原型とする怪獣の身体姿勢・運動スタイルをどのように実現するか、ゴジラ映画に突きつけられた課題は重い。
| 前のページへ |