ハリウッド版ゴジラ 目次
核兵器と巨大怪獣
見どころ
あらすじ
フランスの核実験の歴史
ポリネシアでのゴジラの誕生
パナマの怪事件生
ニュウヨーク上陸
ゴジラとの戦い
運河に消えた怪獣
「捨てる神あれば…」
ゴジラとの死闘
生き延びた卵と幼獣
ゴジラの起原をめぐって
ハリウッド版ゴジラの起原
身体姿勢と歩行様式…
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あらすじ

  太平洋のフランス領ポリネシアにおけるフランス軍による度重なる核実験によって海生爬虫類イグアナが巨大化した。ここでは、それがゴジラの正体だ。
  巨大な海獣は産卵のためであろうか、パナマ陸橋を蹂躙・横断して大西洋に出た。その大怪獣をフランスDGSEの諜報部員たちが追跡していた。
  一方、太平洋と大西洋とを結ぶ運河が位置するパナマはアメリカにとって戦略的要衝だから、ゴジラを海兵隊も調査・追跡する。海兵隊は、若い放射線生物学者ニコス・タトプーロスに協力を要請した。
  やがてゴジラは産卵場所を求めてニュウヨークにやって来た。パナマからゴジラを追跡してきた若い生物学者は、ゴジラによる破壊の被害を小さくするために海兵隊とともに奮闘する。
  大都市を荒らし回る巨大怪獣に対してまず海兵隊が戦いを挑んだ。しかし、ゴジラは生物としての本能や身のこなしで攻撃を回避してしまう。海兵隊は手こずる。そして、運河に逃げ込んだゴジラを潜水艦隊が迎撃することになった。
  そして、潜水艦隊の攻撃を受けてゴジラは姿を消した。軍は、ゴジラを仕留めたものと判断した。しかし、ニコス(ニック)はゴジラがニュウヨークの地下で産卵したと判断して、大怪獣の産卵場所と卵の破壊を提案した。ところが、オードリーがニックが保有していたゴジラの映像をメディアに流したために、ニックは情報漏洩の責任を問われて対策ティームから追放されてしまった。
  ニックはフランス情報部DGSEのロシュ大佐と組んで卵探索・破壊作戦に取り組むことになった。アメリカの軍隊やメディアの狭量さや組織運営の硬直性を皮肉る物語展開が面白い。

フランスの核実験の歴史

  フランスは、大陸間弾道弾に積載した核弾頭の攻撃能力や海軍艦船搭載の核兵器破壊力などの軍事的実力からみると、世界で3番目の核大国であるという。中国をはるかにしのぐ軍事的破壊力を備えている。
  そして、フランス共和国大統領府を中心とする統治構造や経済界は、アメリカと同じくらいに軍産複合体と不可分に癒合している。言ってみれば、ヨーロッパにおけるアメリカのジュニア版である。
  この国家の核兵器開発は1940年代末から始まっていた。つまりは、第2次世界戦争後の荒廃・混乱から国民国家を再建する過程で、不可分の戦略的領域として位置づけられていた。

  この過程を担ったドゥゴールは、戦争中の巧妙な立ち回りで戦後の国家指導者としての地位を手に入れていった。だが、彼をフランスの対ナチス作戦の表舞台に引き上げたのは、ブリテンと――これに丸めこまれた――アメリカだった。
  そして、ブリテンの政財界は、戦争後のフランスの政財界の再編成の過程で、フランスの原子力開発や核兵器開発の育成を援助してきた。というのも、核エネルギー開発は、大規模な国家財政の投入をともなうので、とてつもない利潤をもたらすからだった。
  だが、表向き、フランス=ドゥゴール政権は、ブリテンやアメリカと対立してNATOでも独自の立場を貫いた。そして、ブリテンの早期のEEC加盟に反対した。しかも、フランスはEECの中核の1つとして、ヨーロッパ原子力共同体(EURATOM)を組織して、独自の核エネルギー政策の国際的枠組みの構築を追求した。

  さて、1950年代になると、ドゥゴール政権は核エネルギーの軍事転用を画策して秘密委員会を組織して、核兵器開発を進めた。「秘密」ということだが、放射性原料を供給するブリテンやアメリカの多国籍企業――リオ・ティント&ジンクなど――との協定締結は不可避だったので、ブリテンやアメリカの財界や軍部には、暗黙の了解を得ていたはずであろう。
  そういう文脈では、フランスの立場はおそろしく複雑で、アンビヴァレントである。
  1960年の最初の核実験をめぐる経緯を見ると、フランスの複雑な立場が見えてくる。

  第2次世界戦争直後から、ブリテンと同様にフランスも、旧来型(英仏、ベルギーなど)の植民地帝国レジームの崩壊に直面する。新たな世界レジーム(パクス・アメリカーナの利権構造)の構築を求めるアメリカは、自らの覇権を強化するために、旧来型の植民地帝国の解体を加速・促進しようとしてきた。
  典型が、1956年のブリテン植民地エジプトでのスエズ危機だった。フランスもまた、旧来型の植民地支配=収奪のレジームの組み換えを迫られていた。そして、アルジェリアやヴィェトナムなどでは、原住民による国民形成=国民解放運動、すなわち植民地支配打倒の運動が拡大激化していた。
  そういう状況を考えると、なぜ、フランスが1960年の最初の核実験場所をアルジェリア領サハラ砂漠地帯にしたのか――海洋諸島にしなかったのか――をめぐって、歪んだ理由が浮かび上がる。そして、核実験場をめぐるフランス軍部と政府内部の利害紛争、路線対立が見えてくる。
  アルジェリアの解放運動に対する威嚇の意味が込められていたのだ。ただし、政府の及び腰で中途半端に。
  その意味では、国民対国民の軍事的敵対状況のなかで強行された砂漠の核実験は、限りなくアメリカによる日本の2都市への核爆弾投下という作戦に近似したものであったというべきだろう。軍事的敵対の手段として核兵器の爆発が起きたという点では、アルジェリアも悲惨な被爆国である。
  この点が、私としては「(戦争のなかでの)唯一の被爆国」という反核平和運動のレトリックの独善性や欺瞞性を感じる点である。核実験場とされた地方もまた、悲惨な「被爆国」であるからだ。

  さて、サハラ砂漠(2地点)での核実験は、大気圏および地下での核爆発実験の合計が確認されているだけで917回。そのうち多くが、イスラエルとの共同研究開発としておこなわれた。ということは、イスラエルの核武装は、すでに1960年に軌道が敷設されていたわけだ。
  というのも、フランス(とブリテン)の核兵器・核技術開発には多くのユダヤ系ないしロスチャイルド・プラス・アングロサクスン企業群・金融財閥が密接に絡み合っていたからでもあった。
  核実験や核開発は名目的には国家(=中央政府)がおこなうもの――言い換えれば国家財政を使って駆動される――とされているが、軍からの核原料および技術開発の発注を受けて請け負うのは民間企業群である。つまりは、資本家的企業利潤の獲得手段として、核兵器開発が政権との癒着を土台として遂行される経済的にして政治的な活動なのである。

  1966年7月からはフランスの核実験は、南太平洋の属領ポリネシアでおこなわれてきた。そのうちの大半がムルロア環礁だった。66年から96年までの31年間に、フランス領ポリネシアでの核実験は――確認されているだけで、大気圏内および地下実験合わせて――193回おこなわれた。
  ムルロア環礁で178回、ファンガタウファ環礁で15回。そのなかには、水爆実験もあるし、戦闘爆撃機による上空投下による実験もあった。
  多数の近隣諸島住民、漁民、多種の生物群が強い放射能や降灰、汚染雨を浴びることになった。彼らもまた核兵器による被爆者たちだ。
  しかも、はじめの頃は――アメリカ、ソ連、中国などと同様――放射線被曝の恐ろしさが知られていなかったために、すぐ近隣に艦船やトーチカを設置して観測要員を配置して実験をおこなった。爆発直後の立ち入り調査さえおこなった。いや、指導部は暗黙のうちに人体実験――被曝による影響や後遺症などの研究――を狙っていたのかもしれない。
  その結果、どのように悲惨な健康破壊が起きるかは、説明を要すまい。

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