だが、生まれたときから政治的な権力闘争に巻き込まれた家庭で育ったレイモンドは、思春期を迎えると、政治と両親を拒否し遠ざけるようになった。そして、ハーヴァード大学を優等で卒業すると、親の願望に逆らって陸軍の「兵卒コース」に飛び込んでしまった。前線勤務を希望した。
そして、イラクのクウェイト侵攻が始まった。
訓練を終えたレイモンドは「砂漠の嵐」作戦に従軍することになった。
そのとき、マンチュリアンのマインドコントロール・チップの開発が成功し、秘密裏に陸軍と契約を結び、「兵士の生命を守るため」という名目で、派遣される兵士たちにチップを埋め込む方針が採用された。
エレノアはマンチュリアンと共謀して、レイモンドの小隊のメンバーには特別の処置を施すことにした。レイモンドを「戦争の英雄」に仕立て上げて、鳴り物入りで政界に転身させるためだった。
それが、あの夜、ベネット大尉の指揮する偵察作戦のなかで発生した「惨劇」だった。
エレノアはレイモンドに対して「息子を溺愛する母親」として接しているわけではない。あたかも、自分が生み出した「作品」ないし「工作物」をいとおしむように、いや、自分の(家系の)野望を実現する「手段」として、接しているようだ。1個の人格、個人としてではなく、道具として。
それを実感するせいか、レイモンドは母親に対しては冷淡で、しかも誰に対してもおよそ人間を寄せ付けない雰囲気を漂わせている。一方で、母親の政治的野望=戦略に乗っかって、自分の感情や意識とは切り離して「期待される役割」を演じている。
つまりは、「二重人格」ないし「人格性の分裂」が起きているのだ。なぜか。
レイモンドの精神支配のためのマンチュリアンの「処置」は、ベンたち一般の兵士たちよりも手が込んでいた。
背中のチップだけでなく、脳の中枢部に別のさらに高度なチップが埋め込まれているのだ。そのチップは、一時的に、レイモンドの人格性や個性を完全に奪い、あるキイワードで暗示=指令を送った人物の命令を盲目的に実行する「ロボット」になってしまうのだ。
まさにレイモンドは、マンチュリアンが仕立て上げた副大統領候補( Manchurian Candidate )なのだ。
ベネットはつかんだ謀略の事実をトーマス・ジョーダンのところに持ち込んだ。トーマスは、政界ではプレンティス=ショー家門のライヴァルで、先頃、エレノアの術策によって副大統領候補の地位をレイモンドに奪われた。マンチュリアンとプレンティス派の謀略に敢然と立ち向かうことができる、リベラル派の有力者だ。
トーマスの事務所で、ベンはクウェイトでの事件、マンチュリアン社とエレノアが仕組んだ謀略の構図を伝えた。それは、マスメディアに公表し、しかるべき政界の経路を利用すれば、プレンティス家の政治的影響力決定的に掘り崩すことができる材料だった。
ところが、公明正大さを身上とするトーマス・ジョーダンは、やり方を誤った。
彼は、その夜、プレンティス・ショー家邸宅を訪れ、謀略の事実を公表されたくなかったら、レイモンドには副大統領候補を降りることを、エレノアには引退を要求した。だが、それ以上の手立てを打たなかった。