追い詰められたエレノアは、究極的にして最大の攻撃手段を行使することにした。彼女は息子に呼びかけた。 「レイモンド、レイモンド・ショー軍曹、・・・」
その呼びかけの言葉は、レイモンドの意思と行動を完全に制御して、冷酷非常な命令を実行させるための「キイワード」だった。
翌早朝、トーマス・ジョーダンは、まだ朝靄が立ち込めるチェサピーク湾に浮かべたカヌーを漕ぎ出した。彼はカヌーの名手で、競技会では優勝したことがある。湾の畔にある別荘では、娘のジョスリンがベッドに横たわっていた。
巧みにオールを操るトーマスは、1時間ほどで入り江を周回して、邸宅の近くの浅瀬に戻ろうとしていた。そのとき、岸辺に1人の男がやって来て、トーマスの名を呼んだ。ようやく薄らぎかけた靄の向こうにレイモンドの姿が現れた。
彼は、「これまでのことを謝罪する」と言いながら、スーツ姿のまま湾のなかに入り込んできた。そして、カヌーに近づくと、いきなり手をかけてひっくり返し、トーマスの身体を水中で逆立ちさせて溺死させた。
その場面を目撃したジョスリンは、叫びながら駆け寄っていった。そして、レイモンドに殺戮を止めさせようとした。が、彼女もレイモンドに捕まり、水中に沈められて溺死させられてしまった。
彼女は、かつてはレイモンドの妻だったが、エレノアの画策で無理やり離婚させられた。そして、普段のレイモンドは、いまだにジョスリンへの愛を断ち切れないままでいた。その、愛する元妻を、憐憫のひとかけらもなく殺してしまった。殺戮マシーンになったとき、レイモンド自身の感情や意識は全面的に封じ込められているのだ。
エレノアとマンチュリアンを追い詰めた政治家は、その朝、娘とともに命を奪われてしまった。だが、この事件は、偶発的事故として処理されることになった。すなわち、カヌーの操縦を過ったトーマスが転覆して溺れ、それを助けようとした娘がこれまた過って溺れて死亡した事故として。
この事件をテレヴィニュウズで知ったベネット・マルコは、レイモンドに直接会って説得し、警察に出頭させ、一連の謀略を告白させようと決心した。というのも、大統領選挙ではロバート・アーサーが勝利し、レイモンドが副大統領となることが決まった。もし、このあとアーサーが死去すれば、合州国憲法にしたがってレイモンドが大統領に昇格することになる。
マンチュリアン社とエレノアは必ず、ロバート・アーサーを葬り去る策を講じるだろう。何としても、それを防がなければならない。とにかく、レイモンドに会おう、とベンは腹を固めた。
そのため、ユージェネーの「姉の部屋」に戻って、これまでの経緯を説明した。