一方、国内の秩序や治安も揺らぎ始めた。とりわけ、軍内部の権力闘争や陰謀が目立ち始めた。この国でも、軍のエリートはアメリカやヨーロッパでの教育訓練を経てキャリアを築いていった。軍のテクノクラートのなかで影響力を強めていたのは、アメリカで軍事教育訓練を経たエリートだった。
要するに、アメリカ政府や軍部、CIAは、こうしたエリートがアメリカで教育訓練を受けているときに人脈的・思想的ないし金脈的なコネクションを築き上げていたようだ。そういうエリートの頂点に、これまたゴリゴリの右翼=反左翼のピノチェト将軍がいた。
将軍のもとには、ことにCIAやペンタゴン右派から非公式に莫大な資金と顧問団が送り込まれていた。彼らはチリ国軍(海軍・陸軍・空軍)に兵器体系や戦略・戦術のノウハウを供与し、兵士たちの訓練もおこなっていた。訓練には、当然、規律や士気とならんで思想教育(反左翼・反革命思想)も含まれていた。
また、軍部の右派は、反アジェンデ運動を拒否したりためらっている民主派(合憲派)の将軍を誘拐・殺害を企て、何度か成功した。軍隊の分裂は明らかだった。
憲法にしたがって大統領を支持する派とアジェンデ打倒に実力行使をすべきだとするクーデタ派にと分裂していた。
アジェンデ政権に対する態度では2大派閥に分裂していたが、国家や経済の運営に関する軍の関係をめぐっては、さらにいくつものセクトに分かれていた。
ただ、チリ社会の階級構成と軍との関連について言えることは、有事の際に最前線を担う下級兵士のほとんどが都市下層民衆や貧農(小作農)の出身で、彼らは国内の乏しい雇用環境のもとでは軍に希望を託すしかないと判断して、軍に入った者たちだった。
多くの民衆は社会主義政権の誕生に期待を抱いたが、深刻な経済危機と政府財政の麻痺状態が続くなかで、幻滅を覚え始めた。キリスト教民主党が政権に距離を置き始めた。
こうした危機のなかで、軍部はクーデタを起こし、アジェンデ政権を粉砕し、自分たちの政府を組織していった。きわめて危険な新政権だったが、アメリカ政府や企業のチリへの財政支援や投資はむしろ回復していった。
軍部の攻撃だけではクーデタ(軍事政権樹立)は成功しなかっただろう。深刻な経済危機、急進的な政策の失敗、アジェンデ政権の支持基盤の分断と解体という状況が複合したところに、軍部の反乱が加わって、反革命は成功したのだ。
無慈悲な軍事政権は、クーデタに抗議する政治家や民衆を残酷に弾圧した。第2次世界戦争後になってから成立した「ファシズム」ともいわれている。