ミッシング 目次
原題と原作について
見どころ
あらすじ
軍事クーデタ
アジェンデ政権の苦難の出発
差し迫る経済危機
急ぎすぎた国営化
軍部の動向
クーデタと戒厳令
チャーリーの失踪
チャーリーの父親
浮かび上がる実情
「知りすぎた」チャーリー
恐ろしい「真相」
対   決
チリ「反革命」の構図
政権と軍産複合体の危機感
アメリカ社会の亀裂と「遊民」
「チリ革命」を考える
国有化と計画経済
兵営化した経済計画
チリの状況
「社会主義」は可能か
 
地政学的分析

軍事クーデタ

  1973年9月、チリ陸軍大将ピノチェトが率いる軍隊がサンティアーゴの大統領府を包囲し、激しい攻撃を仕かけた。このとき、大方の軍事的要衝は軍部がすでに制圧していた。追い詰められたアジェンデ大統領は自殺。政権は壊滅した。
  権力を掌握したピノチェトと軍部は、アジェンデ政権を支えた左翼活動家や社会主義者はもとより、クーデタに批判的な市民を拘束し、その多くを残酷な拷問の末に虐殺した。その独裁と抑圧はその後も、止むことはなかった。
  「チリ革命」はわずか3年間で挫折し、消滅した。

アジェンデ政権の苦難の出発

  1970年9月の総選挙で、民衆連合( Unidado Popular )を基盤として立候補したチリ社会主義党のサルバドール・アジェンデは36.2%の支持を獲得して第1位となった。第2位は保守派(民主党)のホルヘ・アレサンドリで、35.8%の得票率。第3位はキリスト教民主党のアドミーロで、28%の得票率だった。アドミーロは、鉱山業の国有化や社会政策の充実など、民衆連合とよく似た選挙綱領を掲げていたことから、アジェンデを支持した。
  キリスト教民主党は、議会制民主主義の擁護などの政策をめぐって、アジェンデと政権協定を結んだのだ。
  チリ上院の評議会は、僅差の第1位のアジェンデを大統領に選出した。こうして、民主的選挙と議会制をつうじてマルクスシスト経済学者が大統領になる、つまり社会主義的運動が政権を樹立するという歴史上はじめての事態が出来した。
  議会制民主主義をつうじての「社会主義革命」が進展するのではないかという期待が、世界中に広がったかに見えた。


  だが、実際には、チリにおける社会的・経済的・政治的危機がそれほどまでに深化=先鋭化していたということだった。この危機は、世界経済での地位も含めて、南アメリカに特有の社会構造とチリに固有の構造が結びついたものだった。
  階級構造も、ほんの一握りの富裕階級と圧倒的多数の貧困下層民衆に分割されていて貧富の格差はひどく、中間階級はきわめて少数だったことから、経済危機は激しい階級対立をもたらしていた。
  経済および軍事でのアメリカへの構造的な従属、国内での深刻な貧富の格差、支配層=富裕層の傲慢と社会問題への無関心、その結果としての階級対立の熾烈化が背景にあった。
  もとよりチリ市民の圧倒的多数は貧困層で、富裕階級や「中産階級」はほんのひとにぎりの人口を占めるだけだった。だが、長い間、数的には多数を占める下層民衆は文化的にも政治的にも分断され、地方ごと、階層ごとに利害は対立していた。大統領選挙で彼らの利害の代表が優位を得ることはなかった。

  ところが、1960年代末から都市のインテリ、専門職層、労働者、農民のあいだに緩やかな政治的連合が形成され始めた。政治的中間層はキリスト教民主党、よりラディカルな改革を望む左派や社会主義者は社会主義党を軸として結集していった。そして、1970年の大統領選挙では、穏健左派と急進左派は「民衆連合」を形成して、広範な都市勤労市民と農民との連帯を組織していった。
  その結果が、アジェンデ候補の大統領選挙で最優位の確保だった。とはいえ、最優位は相対的なもので、投票者の3分の1強の支持率でしかなかった。つまり、あまりに急進的な改革には、半分以上の市民が不支持または反対するおそれがあった。

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