エドたちは、チャーリーと知り合いだったアメリカ人の女性ジャーナリストに捜索を手助けしてもらうことになった。
この女性は、ラテンアメリカにおける合州国政府の介入や策謀を調査し、アメリカやヨーロッパの定期刊行物などに報告記事を寄稿するリベラリストで、アメリカ大使館筋はエドに彼女との接触を避けるように「助言」していた。というのは、彼女はアメリカ政府や軍の「権力犯罪」、たとえば軍部のクーデタや民衆抑圧への加担(資金援助や武器の供与)とか癒着に対して、舌鋒鋭く批判を浴びせて、実態を暴き出してきたからだ。
アメリカの大使館などの在外公館は、在留地や近隣諸国でアメリカの権益を代弁する装置であって、ときには気に入らない政権を転覆破壊する謀略などにもかかわっていることもあったのだ。チリの場合もそうだった。
彼女はエドとベスをフランスやイタリアの在チリ大使館に案内した。そこには、軍事政権の抑圧や追及を逃れたヨーロッパ人やスウェーデン人、メキシコ人が身を寄せていた。これらの大使館は、外交特権を利用して、これらの人びとの身に安全を確保し、安全な外国への避難を支援していた。アメリカ大使館とは大違いだ。
なかには、軍部の虐殺や拷問の事実を目撃してしまったチリ人もいた。彼らは、イタリアやフランス政府によって、チリ政権から圧迫や人権侵害を受けた「難民」として保護を受け、さらには亡命を認めてもらおうとしていた。
そのなかの1人は、友人の目撃談として、チャーリーが軍部に拘束され、拷問を受け、おそらくその直後に処刑されたであろうことを、エドとベスに語った。
エドは大使館筋に強く申し入れて、いまは「死体保管所」となっている保冷倉庫に出かけた。倉庫内は強い冷房(保冷処置)が施されていた。そして、夥しい数の死体が置かれていた。死体は各室にあふれ、廊下や階段、仕切り天井にも無造作に放置されていた。拷問や暴行、虐殺の痕跡が明白な死体もあった。胸が痛くなるような酸鼻な光景だった。
その死体群のなかに、ベスはフランクの遺体を発見した。銃殺されていた。それは、チャーリーの運命をも暗示するかのようだった。
エドはアメリカにいる妻の紹介で、フォード財団の経済顧問に会いに行き、匿名の情報だが、確認が取れた事実として、チャーリーが軍に処刑されていたことを告げられた。逮捕されて3日目に虐殺されていたという。