この映画がつくられたのは、チリのクーデタから9年後の1982年。原作は78年に刊行されている。ともにアメリカ人の手によってだ。その意味では、アメリカの民主主義やジャーナリズム、映画界の批判精神にまずは拍手を送りたい。
映画では、個々の事件の映像化はできなかったが、登場人物たちの会話や論争として、つまり言葉(事件名やその様相を伝える言葉)として多くの事実が提示される。エドとベスの調査で浮かび上がる多くのできごととしても。
まず、ピノチェトのクーデタは、アジェンデ政権成立直後から、チリ政界や軍部をアメリカ政府(軍部とCIAなど)が後押しする形で試みられた「反革命」エピソードの最終局面として描かれている。
たとえば、アメリカの退役軍人たちが組織した軍事コンサルティング会社や多国籍企業をつうじての資金援助、あるいは武器の援助(民間の取引きの体裁を取っている)が、何度もおこなわれたようだ。さらにもっと大っぴらに、アメリカ軍(陸軍と海軍)によるチリ国軍の指導や訓練によって、クーデタのシミュレイション(予行演習)も進められたようだ。
こうした企図は、北米から南米におよぶ大規模な資源の輸送と配分をともなった。アメリカから出て、陸路ではメキシコを経由して、海路ではパナマ運河を経由して、人員や車両などの物資、兵器が大量にチリ国内に運び込まれ、配置されていった。この物流で大きな役割を果たしたのは、チリのトラック輸送組合だった。
この組合は、政治的にも反アジェンデ政権の急先鋒だった。そのうえに、アメリカ軍とチリ軍部の取引きを仲介する運輸業で、したたかに利潤を獲得していた。
アメリカ大使館などの在チリ公館の関与はどうだろうか。
映画で、エドたちの要求や批判の矢面に立たされたのは、領事や駐在武官たちだった。とはいえ、彼らは、水面下ですでにおこなわれてしまったクーデタへのアメリカ政権と軍部やその取り巻き企業の暗躍を極力糊塗しようとするだけで、むしろ尻拭い役であるかに見える。
おそらく事実もそうであろう。
アメリカ軍の将官や「正規の指揮系統」も、クーデタを擁護はするだろうが、「直接に」関与したというわけではなさそうだ。そこが、権力装置の「懐の深さ」というか、「腕の長さ」を示している。つまりは、実質的に強い影響力や指揮権力を行使しながら、複雑な媒介物、カムフラージュを幾重にも介在させて、容易にその痕跡をたどられないようにしているわけだ。
この政変とそれ以降の軍事政権の統治によって、闇から闇に葬られた人びとは数万とも数十万ともいわれている。ピノチェト将軍に対する告発や裁判はチリ国内でも長期にわたって続いているが、大半の事件は闇の奥に隠されたままだ。
クーデタで犠牲になったアメリカ市民も60人以上200人前後はいると伝えられている。チャーリーはむしろ穏健ないし保守的な青年だったが、ごく当たり前の正義感や同情心、旺盛な好奇心をもっていた。チリの軍部からことさら狙い撃ちにされる理由はないように見える。チリ軍部とアメリカのクーデタ支援組織の「過剰反応」だったとも見える。
だが、それだけクーデタやその準備や周辺事情は、リベラルなアメリカ人から見て倫理上、法制度上、許されないような後ろ暗いことだったということを証明しているようにも見える。つまり、こうした事件が合州国の内部にもち込まれて大っぴらな批判を受け、いわんや告発、裁判ともなれば、クーデタに関与した政府や軍、「民間人」の立場は大変なことになるだろう。