第4章 イベリアの諸王朝と国家形成の挫折
この章の目次
エスパーニャの有力な2つの王国の連合はこうした状況のなかで生じた。
王権の強化をねらってアラゴン王ファン2世は、1469年、息フェルナンドをカスティーリャ王女イサベルと結婚させた。カスティーリャでもアラゴンでも、王家の王位継承や婚姻に執拗に介入しようとする貴族たちの思惑の裏をかいた隠密裏の婚姻政策の成果だったという。ことほどさように、有力貴族領主たちによる王権運営への介入や牽制の力は強かったということだ。
1474年にイサベルがカスティーリャ王位を継いだ。79年にはイサベルの夫アラゴン王フェルナンド2世が共同王位についた。
カスティーリャ王国――カスティーリャ自体がレオン王国との連合王国をなしていた――とアラゴン=カタルーニャ連合王国は、名目上は単一の王室によって統治される「同君連合王国」エスパーニャを形成することになった。とはいえエスパーニャ全体を見ると、カスティーリャ、アラゴン、カタルーニャ、アンダルシーア、バレンシーアなど、それぞれの統治圏域はさすがにもはや独立の政治体として振る舞うことはできないものの、半ば以上に自立的なカスティーリャ、アラゴン、カタルーニャ、バレンシーアという統治圏域が同盟した2つの王室に臣従することによって同盟がなしとげられただけで、著しい地方的分立性と格差が残されていた。
アラゴンでは有力貴族の同盟が領地への王室の介入を強固に阻止していた。フェルナンドはアラゴン貴族層の反発を招くような政策を打ち出すつもりはなかった。バルセローナもカタルーニャに君臨する都市として振る舞い続けた。王権による権力集中は、カスティーリャの王領地や有力諸都市でこれから始まるところだった。もとより2人の王とその継承者たちは、貴族の地方支配権を攻撃して絶対王政につながるような専制を築き上げようとはみじんも考えていなかったようだ。
政略的婚姻による王室の合同は、エスパーニャのように連合した諸王国がそれぞれの自立的な政治体をなしている状況、つまり貴族連合はもとの小さな王国版図の規模にとどまっている状況――のなかでは、直轄支配地や財政規模が飛躍的に拡大した王権家門が、単一の権力として個別貴族や貴族連合に対向できる能力を獲得するということを意味する。
とはいえ、王室が統治のために対処すべき課題や地理的範囲が拡大するので、政治的統合を達成しようとすれば、それなりに行財政上および軍事上の負担が増大するので、国家形成にとっては必ずしも促進的な効果をもたらすかどうかは疑問だといえる。
エスパーニャについて言うと、こののちにはハプスブルク家との王室合同も達成されるのだが、王権はヨーロッパ全域を視野に入れた「帝国政策」を打ち出したため、対処すべき戦線は途方もなく広がって、むしろ政治的、軍事的、行財政的負担が増大してしまい、やがて深刻な危機を招くことになった。
以上の文脈から、王権による集権化――実質的には王領地の回復というべきほどの集権化にとどまった――がおこなわれたのはレオン=カスティーリャだけだった。むしろ貴族層の過度の介入からの王室の自立というべき事態だった。王権による地方貴族層の統合とか貴族層の権力の抑制という事態には、遠くおよばなかった。それが王権の集権化の限界だった。
型にはまった歴史教科書では、――植民地世界帝国の獲得などをともなう――燦然と輝く栄光に包まれたエスパーニャ絶対王政の成立ついて語られているが、まったくの幻想でしかない。だから、17世紀後半から末葉にかけてエスパーニャ王権が急速に没落し解体してしまう事態について説明ができなくなるのだ。この章ではエスパーニャ王室の権力構造の実態、そしてエスパーニャではついに国家が形成されなかったという事態を解明することになるだろう。
もちろん、ヨーロッパのどこよりも進んだ国家装置(王権の統治装置)はいくつも創設され機能した。それらは個々の王のパースナリティや弱点にはかかわりなく、半ば以上に自立して王国や王領地の統治組織ないし行財政としては動き続けたが、エスパーニャ全域を政治的・軍事的に統合するための機能や権限はほとんど持ち合わせていなかった。
世界経済における資本と国家、そして都市
第1篇
ヨーロッパ諸国家体系の形成と世界都市
補章-1
ヨーロッパの農村、都市と生態系
――中世中期から晩期
補章-2
ヨーロッパ史における戦争と軍事組織
――中世から近代
第3章
都市と国家のはざまで
――ネーデルラント諸都市と国家形成