第3章 都市と国家のはざまで
――ネーデルラントの都市と国家形成――
第3節 ネーデルラントの商業資本と国家
この節の目次
これまでのところ、ネーデルラント連邦共和国の世界経済での優位を裏打ちする経済的諸要因を主に取り扱ってきた。次に、これらの要因を北部ネーデルラントという一地方に高密度で凝縮し、その独占状態を保持させた政治的構造について考えなければなるまい。それは、流通や生産そして金融を支配する人びと(諸階級)の結集と利害の政治的組織化、統治制度の形成の過程を考察することである。それはすなわち、ネーデルラント北部諸州のハプスブルク王朝からの政治的・軍事的独立をめぐる動きを見るということになる。
ネーデルラント連邦の諸階級、諸集団、諸都市の動きは、国民国家とナショナリズムが当たり前の現象になっている今日の私たちから見ると、どうしようもなく分裂的で、統一性を欠いているように思われる。だが、当時の状況のなかでは、他地域にまさる政治的凝集をつくりだしていたようだ。
1275年、ホラント伯フローリス5世がアムステルダムの住民に伯領での関税免除特権を付与したという。これが、アムステルダム Aemstelredamme という名称が史料に登場した最初である。1306年、領主としてのユトレヒト司教ギュイ・アヴェンヌから都市特許状を受け、アムステルダム市が誕生した。この頃、伯の代官である宰領 Schout 、裁判を担当する参審人 Schepen 、それを補佐する市民代表としての4人の顧問官 Raad ――のちに市政庁を司る市長を含めた参事会となる――からなる統治集団が形成された。スハウトとスヘーペンは伯の権利を侵害しないかぎり市法を制定し交付する権限をもっていた。ラートはその補佐で、市壁・濠の管理、寡婦・孤児の保護などの責務を果たした。
14~15世紀のあいだ都市集落が成長するのと並行して、アムステルダム商人のバルト海貿易・海運業が発展し、富裕大商人層が形成されていった。それとともに、市民代表としてのラートの地位権限が強化され、自立化していった〔cf. 栗原〕。ブルゴーニュ公領の辺境にあって、アムステルダムは、都市を直接支配するような君侯の権力から距離を置いた独特の環境のなかで成長していくことになった。
1400年に伯は、スハウト以外の市役人に対して都市団体の長としてのラートを選出する権利を付与し、アムステルダムは自治都市となった。伯領内ではアムステルダムだけが市民代表
Burgermeesters としてのラートを自ら選出でき、宰領から独立した地位をもったのである。15世紀前半には、アムステルダムのラートはホラント伯位を持つブルゴーニュ公に次ぐ市の最上位の官職となった。同じ頃、市参事会が富裕な上層市民の代表機関として成立した。市長とスヘーペンは参事会員のなかから選任され、参事会は市長に助言・勧告をおこなうようになった。1449年に、参事会は24名の終身会員からなる統治団体としてブルゴーニュ公から承認され、1477年には36名に増員した。参事会員は少数の有力家門によって世襲され、死去などにともなう欠員補充は参事会員経験者がいる家系のなかから互選によっておこなわれた〔cf. 栗原〕。
たいていは同じ少数の門閥商人家系の出身者が世襲的に市長・参事会員の地位を独占し、閉鎖的なエリート集団を形成した。有力家系のあいだで通婚・縁戚関係が取り結ばれ、統治階級として強固な結束をつくりあげていた。16世紀前半には、都市門閥層 regenten の寡頭制支配が確立した。彼らは参事会や市政庁のポストを世襲的に独占した。そして、役職経験者の長老参事会員が、理事団 Out-Raad として市長の諮問をおこなった。
市長、スハウト、スヘーペンは、市政首脳 Magistraat として市政庁の運営を指導し市法制定や裁判を担当した。市長は日常行政、財務・徴税などを指揮監督し、市長を補佐するスハウトとスヘーペンは主に治安と裁判を担当した。彼らは都市統治機関の長として、法律顧問 Pensionaris や財務税務の官職群を率いて行政を指導した。
アムステルダムは16世紀はじめには、まだ3000世帯の小都市だったという。この世紀半ばまでに、この都市集落は、穀物・木材・ピッチ・タールなどのバルト海産物や北海の鰊、フランス西部・スペインのワインや塩などの交易ネットワークの結集軸となって発展した。そして、有力商人どうしのトランザクションが集中し仲介卸や物流など商業機能が集積し、ことに近隣都市で生産された毛織物の仲介卸販売の中心地になっていった。製造業では、醸造業や船舶関連の諸産業(造船業・帆布・ロープ製造業など)が発達した。
こうした都市の成長、つまり市域面積と人口、産業の膨張は、同時に階級・階層のピラミッドの拡大でもあり、それゆえ、上層商人と中下層民衆の利害の対立と調整メカニズムの拡張をももたらした。
16世紀中葉から始まった反乱・独立闘争は、都市での階級闘争と絡み合っていた。アムステルダムでは、反乱・独立闘争のなかで戦闘的イニシアティヴを発揮した新教徒によって、1578年、それまでカトリック系門閥商人が独占していた都市統治機構が改革された。それ以後、アムステルダムは反乱派の牙城になったため、南部からは多数の新教徒の商人・職人が移住してきて、人口の増大が加速した。1585年には、アムステルダム市の人口は約3万1000人、1620年には約9万人、32年には約12万人、40年約14万人、80年にはついに約20万人に達した。
記録されているこれらの人口は公式に市当局から認められた住民の数であり、行き場を失って流入した多数の困窮者の群れは算入されていない。
この間、16世紀末の南欧・地中海地域での穀物不足という状況を利用して、ヨーロッパの穀物供給を掌握し、毛織物、船舶などの工業製品の貿易でも最優位を占めるようになり、遠距離交易商人層・富裕商人が都市貴族層に上昇したことは、すでに述べた。来住者も社会的上昇の機会を得て、富裕商人になった。活力ある新興商人たちはレヘントと融合し、支配階級の新たなメンバーとなった。そして、政権交代のたびに新たなレヘント層が出現した。彼らは、やがて17世紀中葉には地主貴族化し、土地収入・金利生活に転向するものも多かった。おりから、連合東インド会社などの株式や公債など、金利収入を当てにできる諸制度が確立されていた。そのため、早くも、商業資本の貿易ブロックと金融ブロックとの利害の乖離と対立が現れたようだ。
アムステルダムという地名の由来は、1170年代の二度にわたるアムステル河の氾濫ののち、住民たちが居住地の周囲に堰堤を構築して集落を建設し「 Aemstelredamme アムステル河堰堤内にある集落」と名づけたことによるという。
その後、ユトレヒトからアムステル河口・下流一帯(アムステルランド Aemstellamd )は、ユトレヒト司教の統治管区(司教領)に属していたが、13世紀中葉にホラント伯フローリスがアムステル河下流域に勢力を広げ、アムステルダムを支配することになった。このとき、伯はアムステルダムに居住する商人や船乗り、漁師たちにホラント伯領内の陸上道路や橋、堰堤道路の通行にさしいて関税=通行料を免除する特権を付与した。
しかし、1296年にホラント伯の暗殺ののち、アムステル地方はふたたびユトレヒト司教領に編合されることになった。1306年に領主としてのユトレヒト司教はアムステルダムに都市特権を認めたが、まもなく死去し、市域はホラント伯ウィレム3世の支配下に移り伯領に編合された。
1323年、ウィレムはハンブルクからのビール輸入を特定商人団体の独占権として認め、関税を徴収する制度を確立した。これがアムステルダムの特権商人団体によるバルト海のハンザ同盟諸都市との貿易の土台となり、14~15世紀にかけてアムステルダムはバルト海沿岸・東欧から大量の穀物と木材を輸入するようになった。やがて、アムステルダムは低地地方の「穀物倉庫」と呼ばれるようになった。
15世紀にはホラント伯領やユトレヒト司教領はブルゴーニュ公家の支配下に取り込まれた。だが、その世紀の半ばには公家は断絶し、ホラント伯領はハプスブルク家に相続された。だが、アムステルダムの領主権をめぐってはユトレヒト司教と紛争があったようで、結局のところ16世紀半ばに司教は巨額の金銭でハプスブルク家に譲渡したという。
こうして、上位の領主たちが相争っていたおかげで、アムステルダムは――名目上の法的地位とは別に――自由な行動の余地が大きかったようだ。
世界経済における資本と国家、そして都市
第1篇
ヨーロッパ諸国家体系の形成と世界都市
補章-1
ヨーロッパの農村、都市と生態系
――中世中期から晩期
補章-2
ヨーロッパ史における戦争と軍事組織
――中世から近代
第3章
都市と国家のはざまで
――ネーデルラント諸都市と国家形成