では、時間を戻して、16世紀からエスパーニャとラテンアメリカとの関係について眺めてみましょう。
1556年にエスパーニャ王位を受け継いだフェリーぺ2世は、王権が抱える戦争・紛争をも相続しました。
ネーデルラントでは独立=反乱派と戦い、フランスとイングランドも敵に回したうえに、不安定なイベリアとイタリアを統治しながら、遠く離れたアメリカ大陸の植民地領も支配しなければならなかったのです。
財政逼迫のおりから、莫大な財貨をもたらすアメリカの「植民地帝国」を維持することは、至上命題でした。当時、マドリードの通商院という王権装置が、アメリカ植民地の統制を担当していました。
統制のためには、大西洋のかなたにまで統治機構を拡張し、エスパーニャ人植民者とインディオを統制しなければなりません。
エスパーニャ王権は、植民地の統治組織を拡充するために、また王室の収入を増やすために、「新世界」=アメリカの行政官職(貴族の爵位をともなう)を大っぴらに売り出しました。
これが「官職売買(venality)」で、行政官職の地位獲得と権限の行使が、金まみれ、欲まみれ、賄賂(当時は身分=職務にもとづく正当な報酬とされていた)まみれになるのは、避けられません。
これに、本国では目の出なかった下層貴族や在郷騎士出身の猟官者(官職あさり)たちが飛びつきました。こうした手合いは、「アメリカで一山当てよう」として、場合によっては小さな領地を売り払ったり借金をしたりしてまで、官職購入費と渡航費をまかなったようです。
こうして、かなりの金を使って植民地での行政官職を手に入れた新任官僚たちは、アメリカ植民地で「投下資金」を回収し、さらに利益を積み上げるために、職権を私物化・濫用して利権をあさりまくりました。
必然的に植民地統治には乱脈と腐敗がはびこることになりました。
エスパーニャ王権には、直属の行政機構をつくりあげて植民地行政を統制するだけの力はありません。アメリカは大西洋の彼方です。何より、当時のテクノロジーがそれを許しませんでした。
とにかく、植民地を維持して各種の税や利潤を本国に遅らせるために、王権は、欲に目がくらんだ植民地官僚に多くの譲歩をするしかなかったのです。
一方、植民者の側でも、強力な艦隊をもつイングランド人やネーデルラント人の攻撃や貿易の侵害を防ぐために、本国王権による防衛や支援が必要でした。だから、マドリードの通商院に表立って盾突くことはなかったようです。
このような植民地支配の最大の被害者は原住民(インディオ)で、その次の被害者が、奴隷として大西洋を渡ったアフリカ人でした。酷使や虐待、疫病でインディオ人口が激減したため、アフリカ人奴隷は新たな労働力=搾取の対象となったのです。
だが、16世紀、17世紀をつうじて新世界の植民地は、地理的に膨張し、人口も増加し続け、都市も成長していきます。現地に独自の支配階級(エリート)が形成されました。その分、本国王権による統制はさらに弱まっていきます。
アメリカ植民地各地の経済活動は拡大して、南北アメリカ大陸域内で独自の分業体系(食糧の供給・調達体制)がつくりあげられていきました。
この経済圏にネーデルラント人、イングランド人などが割り込んできて、現地の特産物を買い取りヨーロッパで売りさばくとともに、植民地にヨーロッパの工業製品(高級消費財)を供給するようになりました。
そして、アフリカから拉致した黒人を奴隷として植民地に売り込むようになります。
こうして彼らは、アメリカ大陸とヨーロッパそしてアフリカを結んだ「三角貿易」を組織していった。
そうなると、アメリカ大陸に対するエスパーニャ王権の支配統制はどんどん弱まっていくしかありません。