この映像物語についてコメントをつけ加えておこう。
この作品は、大不況のなかで生活の道を見失いかけた、人のいい(根は善良な)2人のデコボコ・コンビの逃亡道中記だ。
こういうコメディは、この2人の取り合わせ、人物像(人物設定)のコントラストが物語の展開にメリハリをもたらす。人物設定のコントラストは、それぞれの身振りや表情、言動・行動パターンによって表される。
まずはネッド。小心ながら抜け目なく行動する。そして、やや派手目の身振り手振り。だが、それは、言葉でうまく表現できない――とっさに状況にふさわしい言葉が出ない――ことの裏返しであって、自分の気持ちを身振り手振り、顔の表情で何とか表そうとしているのだ。
もちろん言葉はポンポン出るが、肝心な言葉が出てこない「うらみ」がある。言葉の空回り・・・それは防御反応であって、機転がきくように見えるが、根が小心者であることからくる限界だ。それが愛嬌ともいえる。
対するジム。ジムの見振り手振りは、きわめて控えめだ。いや、身振り手振りに乏しいくらいに見える。一見、茫洋とした表情に見える。ネッド以外のに人に対しては、言葉少なで、表現も控えめだ。考えながら、ぼそぼそと話す。
だが、これまた小心者で、周り中のことを気にして観察している。なかなかの洞察力だ。思索に耽るタイプかもしれない。
そして、数少ない言葉だが、聞きようによっては深い含蓄が込められている。その才能がいかんなく発揮されたのは、祝祭の記念演説だ。
つまり、表情も身振りも乏しげに見えるが、言葉には説得力がある。
こういう対照的な2つの役回りを演じているのが、ロバート・デニーロとショーン・ペン。デニーロはその地中海系ラテン風の風貌で、身振り手振りや表情が豊かな――だが、適切な言葉が出ずにもどかしげではある――人物。一方ショーンは、控えめで自己抑制が利いたアイリッシュ系アングロサクスンの風貌。
両方ともに、すばらしい演技力を発揮している。
この作品で特筆すべきは、舞台となる建物の建築様式だ。国境の町の修道院が素晴らしい! 河の畔に浮かんでいる、全部が木製・木造の建築物。
この建築様式はじつに見事だ。
聖堂=礼拝堂のアーチや丸屋根(ドーム)もすべて木材を巧妙に加工したり、精巧に組み合わせて造られている。木製・木造建築の粋が、ここに濃縮されている。
それは、石材の切り出し場に立てられた刑務所のイメイジとは、好対照だ。
少なくとも私にとっては、完全に木製・木造の修道院の佇まいは、心の静穏や静謐を呼び起こす。世俗から離れた「修道院かくあるべし」という雰囲気を。
「修道僧」とは、「在俗の僧」の対極にある聖職者の立場=身分だ。
同じ神父、司祭という職務でも、在俗の僧は世俗の人びととの交わりのなかで、信仰や福音を伝達・伝道する立場。ところが、修道士は俗界から隔てられた聖職者だけの固有の世界で修行する。いわば研究職、学究職だ。
とはいえ、現代社会では、この差はきわめて相対的なものでしかない。
というのも、16世紀の宗教改革、宗教=教会紛争からこのかた、現世的世俗社会での信仰の普及とか人びとの救済、あるいは健全な生活の精神的な基盤を与えるという影響力の優劣をめぐって、ローマカトリックとプロテスタントとは苛烈に競争し合ってきたからだ。
一般民衆とかけ離れた世界で神学や信仰を極めることについては、あまり大きな価値を認められなくなったからだ。
この映画でも、町の修道院が周囲の人びとと深く係わり合い、密接に結びついていることは、聖祭行列の様子など随所に描かれている。他方で、質素な僧たちは、雑貨商にとってはもうかる相手ではないことも描かれている。
そのさい、中世ヨーロッパの石造りの聖堂や修道院――硬質の印象――とは異なる、木造・木製の修道院は質素で、穏やかで柔らかい印象を与える。
もちろん、合衆国のカナダとの故郷地帯の亜寒帯・冷帯の混合林ないし針葉樹林のなかにあるのだから、木造の疑似ゴシックの僧院は世俗の垢には染まっていない製品の印象を与える。けれども木造の柔らかさで、辺境の町の人びとの生活に溶け込んでいる印象が強い。
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