翌朝、修道院では祝祭行列の準備が始まった。
ネッドが気がつくと、2人の僧が行列での催し物への参加希望者を受け付けていた。行列に参加するためなら何でも参加するつもりのネッドは、参加を申し込もうとした。ところが、もはや受付時間は過ぎているという。ネッドは強硬な態度で、無理やり参加することにした。
しぶしぶネッドの参加を認めた2人の僧は、「では、あなたが連れ添う障害児は誰ですか。連れてきてください」と告げた。参加者登録をしていたのは、傷害を持つ子どもたちに神の奇蹟を願う行事だったのだ。祝祭行列は、参加を望む者は誰でも行列に加わることができるものだった。
またもや、勘違い。
ところが、ネッドはそういう行事だとは知らずに割り込みしたのだ。今さら引っ込みがつかない彼が思いついたのは、あの母子のこと。聾唖の娘を連れて行こうと決めた。
で、街路に出てあの若い母親モリーを探して行列への参加をもちかけた。けれどもモリーは、「100ドルくれなきゃ、娘の参加を認めない」と息巻いた。ネッドは仕方なく、ジムを探して、「聾唖の娘を行列に参加させるために、100ドル集めてくれ」と頼んだ。
というのは、修道院の行列で曳かれる飾り立てた山車には、住民たちが寄付=報謝として10ドル札などの紙幣を(七夕飾りのように)貼り付けていたので、こっそり失敬できそうな雰囲気だったからだ。だが、僧衣をまとって、多少とも敬虔な気分になっていたジムにとって、「かっぱらい」は大きな冒険だった。というよりも、神聖な行事を冒涜するような気がしたのだろう。
一方ネッドはモリーの説得を続けていた。そのとき、何発かの銃声が響いた。町の雑貨店の方角で、騒ぎが起きたらしい。
「脱獄囚が金をくすねようとして、警官に発見されて撃たれたらしい」という声がした。そのため、ネッドはてっきりジムが100ドル盗ろうとして撃たれたのだと判断した。
「逃亡用の猟銃を雑貨店から奪おうとして、発覚して撃たれて、瀕死の重傷を負った」とかいう噂が飛び交っていた。重傷を負った脱獄犯は、保安官事務所に運び込まれたらしい。
ネッドが行ってみると、事務所の前は人だかり。
警官の1人が、「脱獄犯はもはや助からないから司祭を」と叫んだ。ネッドは、その脱獄囚とはジムのことだと思い込んでいるから、顔を祈祷書で隠しながらも――というのは、周囲には脱獄囚を追っている刑務所長もいたから――「私が司祭です。行きましょう」自ら名乗り出た。
ところが、横たわっていたのは死刑囚のボビーだった。
これまた勘違い。この物語は、「勘違い」がいわば物語の進行を促す「狂言回し」となっている。
ボビーはただちに留置場の監房のなかに移され、ネッドが神父として立ち会うことになった。ボビーは、ネッドが神父に化けているのを見破り、「俺を助け出さないと、お前たちのこともバラして、道連れにするぞ」と脅迫してきた。ボビーは銃撃を受けて傷を負っていいたが、瀕死の重傷というほどのものではなかった。
仕方なく、ネッドは、「5分後に助け出しに来るから」と言って、ジムを探しに出ていった。