ネッドはすぐに橋の側壁に飛び乗った。そして、女の子を助けるために河に飛び込んだ。突然の出来事に呆然としながら、人びとは水面を覗き込んだ。
すると、川に沈んだネッドが女の子を水のなかから女の子を見つけて抱きかかえ、浮かび上がった。
ところが、すぐ下流はダムの堰堤で、その巨大な放水口から流水は20メートルくらいも落下していた。幼女を抱きかかえたネッドは、激しい水流に揉まれながら、落下する水=滝に飲み込まれていった。そのまま、滝つぼに落下して深く沈んでしまった。
その直後、あの「涙の聖母像」もまた放水口から落下していった。
このシーンはじつに美しい。
木製の聖母像は頭を上にしながら、背中を流れ落ちる水に沈ませて、人びとに救いの手を差し出すような形で(垂直に近いような急傾斜を)落下していった。その光景は、天界から降りてきたマリアが、あたかも滝つぼに落ちたネッドと幼女を救出に向かうようなシーンだった。
荘厳で美しい映像!
マリア像も滝つぼに沈んだ。
その聖母像が差し出す手にネッドがすがりついた。木製の聖母像は大きな浮力で浮かび上がった。その救いの手にネッドと幼女を携えて。
水面を眺めている人びとは、聖母像が2人を助けたように見えただろう。つまり奇蹟が起きたのだ。
ダムから落下した水流は、穏やかな流れに変わった。ネッドは聖母像を浮き袋代わりにしがみついきながら、浅瀬に向かっていった。そこに、橋から川岸に走り降りたジムが駆け寄り、2人を引き寄せ、幼女を助け上げた。ネッドは、「救いの神」=聖母像をおごそかに引き上げた。
ネッドは岸に上がると、女の子に寄り添った。心配そうに見つめると、女の子は深呼吸のあとに声を出し始めた。生まれてはじめて声を出したのだ。
「ヒー……イズ……コ…ン…ヴィ…ク…ト」( He is convict. )
この言葉を駆け寄った修道僧が聞き取った。そして、顔をしかめて、ネッドを見た。周囲の人びとも、おそらくかすかに聞き取ったに違いない。
修道僧は院長に近づき、幼女が発した言葉を耳打ちした。 「もういけない」ネッドは観念した。自分が「脱獄囚」だとばれてしまった、と。
衆人環視のなかで修道院長はネッドに問いただした。
「本当なのかね、君。そのことを隠していたのかね」
「はい、その通りです。いや、別に悪気はなかったんです」とネッド。跪いて寛恕を乞うた。ところが、修道院長の言葉には続きがあった。
「新教徒への改宗者(転向者)なのかね」
「はい、…ン?」
「コンヴィクト」とは、現代の一般世俗社会では「脱獄囚」とか「刑事被告」などの非難がましい意味がある。
ところが、もっと古い時代には、とりわけローマカトリック教会では、同じ非難めいた意味ではあるが、異端への改宗者、プロテスタントへの転向者――その意味で、「教皇庁から異端者として断罪=非難告発された者」という意味がある。
ここで、修道僧と院長が顔をしかめたのは、こっちの方の意味においてである。ここでも勘違いが物語を展開させる。
だが、この修道院長、やはり長く厳しい修行を経て達観・寛容の境地に達した「つわもの」である。一瞬の躊躇ののち、
「あなたに祝福あれ!」と人命救助の徳を讃えて、神の祝福を祈ってくれた。許しが出たのだ。
粋な方向への「間の外し方」。やはり、デニーロの制作総指揮は伊達ではない。うまい、泣かせる、美しい、そして思わずにっこり笑える。