俺たちは天使じゃない 目次
力作のリメイク版
原題について
見どころ
あらすじ
ネッドとジム
仕方なく脱獄
国境の町で
修道院で
母子との出会い
狭められた包囲網
「涙の聖母像」の奇蹟!?
話題の脱線
祝祭行列でのハプニング
ジムの演説
死刑囚との対決
ネッドの献身
それぞれの道を行く
この映画のあれこれ
  絶妙のコンビ
  修道院の造り
おススメの記事
デニーロ出演作品
ミッション
1900年

話題の脱線 2人の神学者は著作内容について

  「涙の聖母像」の奇蹟の実体は、雨漏りだった。
  奇蹟とは、えてしてこういうものである。
  雨漏りが、涙の聖母像という奇蹟の真実だった。
  修道院の営繕管理の責任者である院長は、ずっと以前からこの事実を知っていたようだ。それでも、人びとが心のよりどころや勇気を得ようとする限り、切望する限り、奇蹟は起こり続けるべきだと信じていた。そういう悟りを開いた彼は、心の広い聖職者なのだろう。
  いや、奇蹟を求めて多くの信徒がやってくるように配慮した、したたかな「経営者」なのかもしれない。
  ここでは、人びとの願望・切望がもたらす勘違いが、奇蹟を生み出すという因果関係が描かれている。

  そこで気になるのが、ブラウン神父とライリー神父が著作で表明した「奇蹟についての独創的な考え」とはどういうものか、だ。その内容は、映画のなかでは描かれない。そして、こんな疑問は「余計なお世話」である。
  だが、私は気になる。
  そこで、映画のシークェンスから想像してみた。修道院長が語った内容と状況から推論してみよう。


  おそらく2人の神学者は、《奇蹟とは、万人に普遍的に現象するものではなく、きわめてパースナルで内面的なものだ》ということではないか。聖母像の頬を濡らす涙は雨漏りであって、人びとの勘違いから「奇蹟」はつくり出された。その意味では、錯誤であって、事実の上っ面だけを見ているにすぎない。
  けれども、救いを求め、勇気を奮い起こすきかけを求める人びとが、マリアの涙=雨の滴を奇蹟を受け取り、そこから人生への積極的な姿勢を獲得するなら、その限りで「真実の奇蹟である」。
  客観的な事実を知る人は、あえて奇蹟を信じる人びとを説得して、「客観的な事実」を理解させ、奇蹟の存在を否定する必要はない。
  その代わり、その奇蹟の意味を、やたらに普遍化して自分以外の人たちに押し付けるのは誤りだ、と解釈したのではないか。

  なぜ、こう考えたか。というのは、この作品のスペシャルプロデューサーが、ロバート・デニーロだからだ。
  彼の演技力の根底には、「演技(ロールプレイング)の真実はパースナルなものだ」という見方が横たわっているように思うからだ。
  演劇理論(演技方法論)には、「スタニスラフスキー・システム」というものがある。乱暴に単純化すれば、役柄となる人物の実在性をその人の心理や生活環境(心理や社会的地位、受けた教育、育ちなど)の全体を想像して、徹底的に考え抜いて、その人物らしく演じ切るという方法論だ。
  役者が脚本や原作物語を徹底的に深く読み込んで、自分が演ずる人物の性格、心理、育った環境、家族・友人関係などのイメイジを描き、そういう人物像ならば必然的にこういう言動をするだろうと演技する方法だ。

  だが、デニーロの人物洞察や演技の研鑽は、まだすごい。
  彼にしか考えつかないような役づくり、人物像の彫琢。徹底的に自分にとっての、つまりパースナルな人物像を描く。誰にとっても「そうであるような」人物像ではない。だが、それゆえにこそ、彼の演技の存在感は圧倒的で、パースナルであるがゆえにこそ、普遍的な人物役柄になる。

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