映画『ニューオリーンズ・トライアル』の原題は Runaway Jury 。邦訳すると「だまして逃げろや 陪審員」とでもなろうか。英語の原題だと、陪審員団の評決をめぐる騙し合いというか、陪審員団の背後でうごめく策謀を描いた作品であることが一目瞭然の題名だ。
原作は John Ray Grisham, Runaway Jury, 1996 ということで、裁判・法廷ものスリラーの大家ジョン・グリシャムの小説が原作だ。
■原作の内容について■
原作では、訴訟の内容が別のものになっている。原告セレステの夫は長年の喫煙の結果、肺癌で死亡したことから、セレステはウェンデル・ドーアー弁護士を代理人として、巨大タバコ会社を相手取って過失責任による民事賠償を求めて提訴したのだ。
ここでは、タバコ会社は発癌の危険性を知りながら、その危険性を需要者に明白に警告することなく、製造物を社会に供給し続け、発癌の危険性を社会全体に撒き散らしてきたという過失責任が問われることになった。
アメリカでは、1980年代から、嗜好品を含めた飲食物などの製造メイカーは、製造物の内容や性質に応じて、どのような摂取方法が健康上安全か、あるいはどのような摂取方法が危険かを明示する責任をもつという見方が普及した状況が背景にある。
もっとも、アメリカでは、コーラやチップス菓子、高糖質・高脂肪の食品の習慣的な摂取が肥満や糖尿病、循環器系疾患の大きな原因となっていると、生化学的・医学的に「ほぼ証明」されて久しい。だが、こうした業界の主要メイカーで倒産したものはない。相変わらず、大量の製品を供給し続けている。タバコ業界だけではないのだ。
合衆国では、インテリや比較的富裕な階層では、上記のような商品はジャンク・ドリンク、ジャンク・フーズとして忌避される傾向が強い。しかし一般庶民、ことに低所得層ではこういう飲食物による肥満や生活習慣病などが大きな健康問題となっていて、合衆国の医療費の膨張の大きな原因となっている。
それにしても、評判が悪くなったことからタバコやコーラ、ジャンク・フーズはアメリカ国内の市場をしだいに失っていることによる減収分を、アジアやアフリカ、ラテンアメリカなどへの輸出拡大や多国籍企業化によってカヴァーしている。
つまり、資本主義的産業として、大手を振って経営を続けているわけだ。ということは、何度となく裁判で問題とされても、決定的な敗北にはいたっていないということを意味する。
この映画の制作陣は、アメリカでの銃規制の問題に訴訟内容を移し換えて、訴訟コンサルティング業界の悪辣さを描いて暴きだしている。
ただし、原作でも陪審コンサルタントの「えげつないやり方」は映画と同じだ。相手側に正当性があっても、力を動員して圧し潰そうというわけだ。大きな富と権力を握る者が、《裁判というゲーム》にそういう資源を投入して「何が悪い」ということだ。
■映画とアメリカの銃問題■
映画では、かなり製造物の性質が違う銃器のメイカーが被告となっている。
そこには、映画制作陣の考え方が現れている。タバコ会社が社会への供給・流通において、その製造物の使用や消費における危険性を知覚しているならば、その危険性に配慮し、安全な使用・消費方法を提示すべきだ、という法理を銃にも直接に適用したわけだ。
その意味では、法理の適用にかなりムリがあるように見える。だが、映像化した背景には、それだけ銃による殺傷事件がひどい事情があるということだ。
物語のなかでジーン・ハックマン演じるランキン・フィッチは、「毎年、銃によって死亡する人びとの数は3万人、また銃によって傷害を受ける人びとは10万人にのぼる」と語っている。
死傷者の数は「戦争」並みだ。つまり、アメリカ連邦国家は国内の市民社会で戦争並みの殺戮・破壊を取り除くことがいまだできていないということだ。中世晩期から近世にかけての戦乱状態にある「野蛮な国家」――近代市民社会を達成していない――状態にあるのだが、多数の市民と兵器製造企業はそれでいいと肯定しているのだから。