ところが、ニコラスは、ランキン・フィッチが策を弄して陪審員を絡め取ろうとしていることを知っていた。そこで、ランキンが想定している陪審員の動きから逸脱させる画策を始めた。ランキンは想定した動きに合わせて、陪審員への働きかけをおこなうはずで、その動きを乱せば、ランキンの作戦に狂いが生じるだろうという読みだ。
つまり、対抗的な撹乱作戦だ。これによって、陪審員たちを誘導しようとする別の力がはたらいていることを示そうというのかもしれない。
まず手始めは、陪審員長の選出をめぐる動きだった。
ランキンは、陪審員メンバーのなかでフランク・ヘレーラが陪審員長になるはずだと見ていた。彼は保守的で権威主義的な態度をとり、仕切りたがっている男だ。だから、強引に陪審員団を仕切る立場におさまろうと動くはずだからだ。
ヘレーラはキューバからの亡命移民の子孫で、海兵隊の曹長(教官)あがりで、世界各地の危険な任地に赴いてきた。そして、数々の戦功をあげてきたことに、過剰なほどの自信を抱いている。だが、退役後は、プールの清掃作業員をしている。
自分の過去の実績への過剰な思い入れと現在の不遇との落差は、彼をして団体行動を仕切って自分の存在を目立たせ、権威を押し通そうとする傲慢な態度を生み出しているようだ。
そのヘレーラが陪審員長の選出手続きを仕切り始めた。
ところが、ニコラスが反対意見を切り出し、別の何人かが立候補するように仕向け、彼自身は盲目の老人、ハ−マン・グライムズを推薦し、結局、ハーマンを長に据えることに成功した。ヘレーラの厚かましい態度は、人を委縮させがちだが反発をも呼び起こす。だから、ひとたびヘレーラへの不満や不信が表明されれば、その立場を堀崩すのは容易だった。
ハーマンは、視力障害を理由に陪審員選任に疑問を呈した判事に、過去の判例をひいて堂々と反論して選任を認めさせた反骨漢だ。弱い立場の人びとに親近感を持っていると見られる。
次は初日の昼食だった。
ニコラスが陪審員団へのランチの配達を請け負った店のメニューチラシを窓の外に投げ捨て、それを拾ったギャビーが電話番号を見て店にランチの配達時間を遅らせるような電話を入れた。そして、ランチの遅配を理由に、ニコラスは判事にかけ合い、近くの高級レストランで陪審員メンバーが昼食を食べるように段取りした。
これによって、陪審員たちが裁判所内で取り寄せたランチを食べるという「通常の行動」からの逸脱が生じた。
陪審員をめぐる動きに異常が発生したことを、ランキンが察知して不安を感じ始めた。
そのやさきに、ギャビーがマーリーと名乗って電話を入れた。
「望ましい評決を得たいなら、陪審員を買収しなさいよ。われわれが陪審員を誘導しているから、相応の金を支払ってはいかが」と。買収の代金はあとで知らせる、と言ってギャビーは電話を切った。