さて、ロベルタが呼びかけた保護者の集会(夜、ロベルタの自宅で開催)にはたくさんの父母たち、そして教員たちが集まった。そこにはドロテアも参加していた。彼女は、夫のアーノルド・スタインハートらにも協力してもらって、有料の慈善コンサート(参加費は50〜100ドル)を開催することを提案した。会場は市内のYMCAホール。
教室の生徒たちだけの演奏では、有料コンサートに多数の人を動員できないから、国際的に第一級のプロ演奏家も参加させようというのだ。スタインハートは、知り合いのイツァーク・パールマンにも協力を呼びかけた。
一方、ロベルタはダン・パクストンにニューヨークタイムズをはじめとする州内の有力メディアのジャーナリストたちに、この運動を取材して記事に取り上げてもらうよう働きかけを頼んだ。何よりもラザーニャが効いた。ロベルタは、パクストンの研究室に手製のラザーニャを届けて、「お願いの手紙」を添えたのだ。
そして、教室存続のための市民運動と子どもたちの音楽活動が、いくつもの有力新聞のトピックス記事となった。
さっそく集会の翌朝から、広報活動や組織化活動が始まった。
もちろん、ロベルタにとって最重要課題は、教室の生徒たちのなかから優秀な子どもたちを選抜し、連日ハードワークを課して、一流のプロとの共演・協演にふさわしい力量を身につけさせることだった。
教室のなかでも、とりわけロベルタがその才能に期待しているカルロスという少年は、彼の所属する野球ティームの練習や試合をしばらくほっぽり出すことにした。ティームメイトからは、「なんだよ、野球をサボってヴァイオリン教室の先生=おばさんとデイトかい」とからかわれた。カルロスは、その言葉に決然とした返事を返した。
「そのとおりさ!」
彼は妹に預けてあったヴァイオリン(ケイス入り)を受け取ると、昂然と歩き去った。
ところが、会場に予定していたYMCAホールが、水道配管のトラブルで使用できなくなった。ほかに会場のあてがない。ドロテアは困り果てて、イザイアー・シェファーに相談したところ、何と、カーネギーホールでやろうと申し出てくれた。
ロベルタが練習と音響調を兼ねてカーネギーホールを訪れたところ、ちょうどオケ・リハをしていたアイザック・スターンがやって来た。そして、「ぜひ私と仲間も参加させてくれ」と連帯=協力を申し出た。
その後も、一流音楽家たちの連帯と協力の申し出が続いた。こうして、ジャズからクラシックまで、十数人の超一流のヴァイオリニストが勢ぞろいすることになった。
ロベルタのヴァイオリン教室を卒業して、今は学術や音楽の世界で活躍しているヴァイオリンの名手たちも応援に駆けつけた。ナイームとデショーン、そしてグァダルーペだ。