ロイズ銀行ベイカー街支店の地下貸金庫を、ただ単に財貨の保管のためではなく、自分の安全や権力の「切り札」の隠し場所として利用していたのは、マイケルXだけではなかった。
テリーたちが地下金庫に破りの手はずを考えている頃、ルー・ヴォーゲルは警察官たちと面談していた。ヴォーゲルは、ロンドンの主だった売春窟を経営・支配しているギャングファミリーのボスだった。
面談は取締りや取調べのためではない。
警察官たちは、ルーが経営しているロンドンの売春ビズネスを大目に見る――取り締まりで大いに手心を加えて売春業の安全を保証する――見返りとしての「袖の下」の値上げ交渉をしたいたのだ。
ヴォーゲルは女性たちを支配・搾取して巨額の利益を獲得していたが、その一定部分をロンドンの警察組織――性犯罪と組織犯罪取締り部門――をまるごと買収するために分配していた。この買収の効果は絶大だった。
スコットランドヤードがときおり抜き打ち的におこなう売春取締り作戦は、その情報が事前にヴォーゲルに提供され、彼の経営する売春窟は大きな被害を受けるような摘発から免れていた。性犯罪や組織犯罪部門のかなり高い地位の警察官も買収(利益配当)にあずかっているらしい。
ヴォーゲルにとって警察組織への高額の支払いは痛いには痛いが、ビズネスの安全保障を獲得するための必要不可欠の経費だった。経営上の必要経費だから、ちゃんと経営管理のための帳簿に記録している。ただし、課税資料として当局から把握されるような帳簿ではない。「裏帳簿」にだ。
彼はいつ、誰にどれだけの金額を支払ったかを裏帳簿に厳格に記録していた。この腐敗・買収システムに関与している警察組織のメンバーの名前、そして事実経過は、帳簿を見れば一目瞭然だった。赤黒い革表紙の帳面で、それは彼の身柄とビズネスの安全を守るための「切り札」として厳密に保管されなければならない。
そこで彼は、ロイズのベイカー街支店の貸金庫にこの裏帳簿を保管していたのだ。
その日も、警察官たちが要求を実現し、札束をポケットにしまって帰ったのち、ヴォーゲルは日付と金額、それを渡した警察官名を帳簿に詳細に記録した。
ロイズの地下貸金庫に預託保管することの安全性は、もう長年にわたって実証されてきた。
ルーは、貸金庫の効用を麻薬や売春にかかわる別の黒人系裏組織のボスに吹聴したことがある。その相手というのが、マイケルXだった。
さて、ベイカー街支店の貸金庫の顧客の1人に、ソニア・バーンという裕福な中年女性がいた。
彼女は、そのヴォーゲルの系列下で、美女を取りそろえてS&M趣味のセレブたちに「専門サーヴィス」を提供している店を取り仕切っている。この店は「高級店」で、きわめて高額のサーヴィス代金を請求する。その代わり、顧客のプライヴァシーは完全に守る約束を守っていた。
したがって、金がある政財界のリーダーや高級官僚が顧客リストに名を連ねていた。
ウェストミンスターの大立者たちが足繁く通っていて、まるで名士の社交場の態を見せることさえあった。
ある日このいささか奇妙な高級社交場で、庶民院の有力者で閣僚の1人スノウと、あのティム・エヴァレットに銀行襲撃の作戦を慫慂したMIの部長が顔を合わせた。彼らは、S&M売春窟で顔を合わせることに平然としていた。
プライヴァシーや秘密が外に漏れることがないことを確信していたからだ。この店の常連になるためには、政財界や官界の「その道」の同好の顔役による紹介が必要だった。こうしてエリート―サークルの一角を構成する人脈ネットワークができ上がるというしだいなのだ。
ところがソニアは、プレイをおこなわせる個室にモニター用ヴィデオ録画セットを設置していた。もちろん、顧客たちが興奮や陶酔のあまり、身体の危険をもたらすような暴力的なプレイにおよぶ危険を事前に察知・予防するためという目的はあった。
だが、そのほかに彼女は、自分の趣味なのか身の安全保障のためなのか、密かに名士のプレイの画像を写真(印画紙)焼きして保管していた。
もちろん保管場所は、ロイズのベイカー街支店の地下貸金庫である。
このほか、この貸金庫には、脱税やら違法送金経路を経た現金、そしてマニーローンダリングのために秘匿・保管されている現金、さらに盗難したはずの財貨が保管されていた。
資本主義社会ではどれほど悪辣な犯罪で得たものであろうと、その痕跡を消してしまえば、貨幣や財宝は権力や地位、栄光を手にする手段として罷り通る。この原理が貫徹する限り、後ろ暗い資金や財宝が有力銀行の貸金庫に安全に保管され秘匿されるるのだ。