翌日の午前11時、パディントン駅の構内。
テリーは、裏帳簿とくだんの写真を入れた封筒を手にして、焦燥感にあおられながら構内の時計を眺めていた。登場人物たちの誰もが約束の時間どおりにここに来ないと、彼の計略は奏功しないからだ。
駅の構内にはマルティーヌがいた。ティムもいた。それぞれテリーから距離を置いて事態の成り行きを見つめていた。
ヴォーゲル・ファミリーは少し遅れていた。
偶然のことに、テリーから写真を受け取るはずのマウントバッテン侯も遅れていた。
マウントバッテン侯とは、マウントバッテン・オヴ・ビルマ伯爵1世。ヴィクトリア女王の子息で、有力王族の1人。この場合の伯爵とは「アール
: earl 」なので普通の伯爵 count や辺境伯 marquess よりも上級の領主(上級伯爵)でいわば「ほぼ侯爵」に当たる身分。
アールとは、地方侯国の王としての格を認められながらイングランド王に臣従する上級伯といえるだろう。かつてはインド総督としてビルマ領を保有していたこともあるので、ビルマ領伯の肩書もついていた。
傲岸不遜で冒険好きなので、この物語では、王族のスキャンダルをもみ消すための交渉役を割り当てられたのだろう。
ギヴン一行も道路事情で駅に着くのが遅れた。
11時5分、ルウ・ヴォーゲルとボディガードがトラックに現れた。ただちにエディと裏帳簿との交換が行われた。
続いて、マウントバッテンとの取引がおこなわれた。写真を見たマウントバッテンは、「おやおや、あのおてんば娘がまたしても…」と呟いた。
受け渡しの直後、ギヴンたちの到着が遅れていることを察知したテリーは、ヴォーゲルをこの場に引き留めるために追いすがった。こうして、ルウ、ボディガード、テリー3人の殴り合いが始まった。そこに待ち構えていたパイクら腐敗警官たちが介入して、テリーを捕えようとした。捕えてしまえば、あとはどうにでも闇に葬り去ることができる。
ところが、そこにギヴン警部の一行が現れた。そして、ヴォーゲルとパイク一味を捕縛してしまった。ついでにテリーも逮捕しようとしたが、マウントバッテンに同行した政府の高官がギヴンを引き止めて、離れたところで話を始めた。
ギヴンは、王室や政府が絡んだ事態についての説明を聞いて、眉を動かした。そして、テリーを解き放った。
■事件のあと■
マウントバッテン伯(王室/王族の代表)が政府と協議してテリーに伝えた交換条件とは、次のようなものだった。
@ テリーは、マーガレット王女と思しき人物写真をすべて政府(マウントバッテン卿)に引き渡す。そのさい、テリーは写真の複製をおこなってはならない。
A @を完全履行することを引き換えに、テリー一味の銀行強奪に関する刑事犯罪を問わない。ただし、今後、約束を破ってテリーたちが写真の複製などをつくってあって、利用しようとするようなことがもしあれば、ブリテン政府は刑事責任を追及する――情報機関による暗殺もありうる。
A 銀行強奪の犯罪を追求しないことの結果として、テリー一味が銀行から奪った財貨についても、当局は関知しない。被害者への返還も求めない。というのも、被害者である銀行は具体的な被害届けを提出していないから。そして、貸金庫の利用者からも被害届け(および告訴)が提起されていないから。
したがって、テリーたちは自分の分け前を自由に保有、利用、処分できる。
こうして、テリーはいちやく大金持ちになった。彼は、中古車販売会社の債務をすべて完済し、借金がすっかりなくなった会社を、約束どおりエディに引き渡した。エディはめでたく同僚のイングリッドと結婚した。
テリーは事件直後に、安全のために娘たちを連れて実家に帰っていた妻、ウェンディとよりを戻して、巨額の資産をともなって家族でカリブ海のどこかの島に移住した。そこで豪華な小型クルーザーを買って、のどかに暮らし始めた。
物語の最終シーンは、クルーザーに乗りながら、熱帯の海で家族と楽しく過ごすテリーの姿である。
マルティーヌは、じつはテリーに惚れていたが、テリーが妻や家族との絆を何よりも大事にしているので、離れていった。そして、芸能界やモデルの仕事からすっかり身を退いた。そもそも、今回の銀行のヤマに手を出したのは、一見セレブだが、スポンサーやテレヴィ局に媚を売る暮らしに嫌気がさしていからだった。
彼女のかつての「つかの間の恋人」だったケヴィンは、彼女に復縁を促したが、拒否された。だが、彼はさばさばとして、有り余る金で芸術写真家への道を歩み始めた。