この物語では、内閣直属の情報機関としてMI5――これと協力するMI6――が暗躍する。この組織は、ブリテンに関係する現代スパイもの小説や映画などの物語に頻繁に登場する。
だが、小説や映画の解説記事を読んでも、MI5やMI6についての説明は諸説様々で、本当のところはどうなのか、いまひとつ判然としない。
もっとも、秘密情報組織の実態・実体が判然と世の中にわかるようになってしまえば、おしまいである。機能も威力も半減してしまうだろう。
「現代の民主主義社会で、政府機関の一環をなす組織が一般市民の目から隠されているのは、おかしい、誤りだ!」と建前を主張して批判することはできるだろう。だが、しょせんは国家のレジームとはそういうものだ。レジームとは、たしかに「一般市民がおおむね安全に社会生活をおくることができる」ようにするための秩序であるけれども、結局のところ、現行の仕組みのなかで最優位に利害の実現できるエリート(支配階級)にとってこそ一番役に立つ仕組みなのだ。
「市民は平等だ」というのは法の条文面だけであって、資本主義的社会における経済生活の現実や政府財政の分配では、格差と敵対性は歴然としている。
レジームというものは、「人の上に人をつくり、人の下に人をつくる」仕組みなのである。国家がある限り、身分差とも呼べるほどの階級格差は必然的に随伴し絡みついているのだ。
で、このMI5だが、ブリテン連合王国の内閣直属の情報組織である。だが、MI=《 Military Intelligence,
section 5:軍事情報部第5課》というのはニックネイム(俗称・通称)であって、正規の名称ではない。軍固有の組織でもない。
連合王国のレジームの安全保障のために機能する、さまざまな機関の集合からなる情報組織の1つである。
ここでいうインテリジェンスとは、高度に政治的ないし戦略的な知的情報であって、国家意思=政策目標の形成にとって枢要な情報である、と支配的エリート階級は考えているようだ。
したがって、ここで語ることも公式上の制度「表向きの顔」にすぎない。
というのは、アングロサクスン系国家の基本法としての憲法も成文法ではなくて、慣習規範とコモンローによって代位されているブリテンなのだから。貴族も含めた家門の結びつきや、シティの金融寡頭制、パブリックスクールやオクスブリッジなどの学閥をつうじて組織されたブリテン支配ブロックのインナーサークルは、法制度上の機関や組織を横断し、あるいは縦断する形で、ときにはアミーバ状のネットワークとして存在・機能しているからだ。
だから首相府の高官とシティの金融会社の幹部とが、軍の将官を交えて会員制クラブで非公式の会合を開いたとして、それが場合によっては、安全保障政策の指針を決定する場となることもある。その案は、庶民院や貴族院を大きな修正や反対なく通過するだろう。
1963年まで軍政局( War Office )のもとにあった軍事情報部は、その後、いくどかの中央政府組織や軍組織の再編を経て、現在ではその機能と人員は「安全保障局:
Security Service 」に引き継がれている。
この安全保障局は、秘密情報局( Segcret Intelligence Sservice )や防衛情報幕僚部( Defence Intelligence
Staff )、首相府通信管理局( Government Communication Headquarter )と緊密に結びつきながら、国民国家としてのUKの安全保障をめぐる情報活動を営んでいる。
これらの組織と相互関係(専門分業と協業)を規制するする法規は、1989年の安全保障活動法( Security Service Act )と1994年の情報活動法(
Intelligence Service Act )である。サーヴィスという用語は日本語にしにくい。ここでは、政府の特定の活動・機能を専門的に担う組織=部局という意味にでもなろうか。
首相府通信監理局GCHQは、公営ならびに民間のテレヴィ・通信メディアへのコードと周波帯の割り当てをもおこなっているので、ブリテンの放送や報道や通信は(とりわけインターネットやディジタル化が進んだ現在)その内容がこれらの情報機関のフィルターや傍受システム――自動化されたコンピュータシステム――によってモニタリングされてことは間違いなかろう。
安全保障局の1部門MI5は、主としてブリテン領土内での議会制民主主義レジームとこのレジームが代表する経済的利害を擁護し、カウンターテロリズム、対諜報の活動を担うとされているが、もとよりほかの情報機関と連携して国外の安全保障=情報活動も展開する。
だから、「MI5が国内活動担当で、MI6が海外担当」ということには必ずしもならない。
注意すべきは、これらの機関相互で絶えず人事交流・異動や配置転換がおこなわれていて、公式・非公式の多様な人脈的・人員的交流が繰り広げられていて、組織の区分や仕切りは「あってなきようなもの」だということだ。
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