アメリカ合州国は、移民によって構成されてきた国家だ。今でも、毎年、多数の移民を受け入れている。近年は、かなり厳しい制限や選別の精度を導入してはいるが、受け入れた移民の相当の割合に対して市民権=国籍を与えている。
ただし、アメリカの市民権の付与には、ヨーロッパ諸国のような社会保障や公的な扶助はともなっていない――連邦国家のレヴェルでは。
いや、移民だけではない。およそ市民に対して、連邦政府は、日本やヨーロッパのような、国民横断的な社会保障や公的扶助、ないしは社会保険、医療保険を制度化してはいない。公的な制度としては雇用=失業保険もない、医療保険もない、年金もない。つまりは、国家としては社会的リスクに対して野放しの「国」なのだ。
すべて「自己責任」だ。弱肉強食の論理の貫徹だ。
とはいえ、州や地方政府レヴェルではところによって、住民に対する社会保障や公的扶助を取り入れているところもある。地方政府の連邦政府からの自立性は大きいのだ。だが、連邦財政による補助はないので、財源のない地方では、何もないか、きわめて貧弱な制度でしかないということになる。
レイガン政権時代に、わずかしかなかった連邦公的扶助とか社会保障制度のほとんどを、州や市などの地方政府に移管してしまった。ただし、財源の大半は、州や地方政府が自己責任でやれ、という仕組みにしてしまった。
財源が豊かだったり、住民の多数派が進歩的な意思リベラルな州や地方では、それないりに福祉や社会政策は手厚い。が、保守的だったり、財源が弱い州、地方政府は、「ない袖は振れない」ということになる。
いや、過去には、社会保障や公的給付は「アカ」の考えることだ、という偏見で押し通してきた地方すらある。
今でも、この医療や障害者支援における所得階級による格差は、目を覆いたくなるばかりだ。
連邦政府は、あの巨額の軍事費を、世界中で軍事力や世界戦略を展開するために、惜しげもなく浪費している。だが、市民生活の社会的な保障には、きわめて冷淡なのだ。
軍事的武装による国民国家の防衛には巨額の財政を支出するが、社会的な防衛には無頓着なわけで、内側からの国民の分裂や空洞化が進んでいる。社会の紐帯や連帯が弱くなっても、支配的諸階級の政治的凝集は固いから、市民が分裂していた方がその分、支配層の思いのままに統治できるという論理なのかもしれない。
では、市民の社会生活でのリスクはカヴァーされないのか。
そんなことはない。ただし、自己責任と運による選別の仕組みがともなっている。つまり、民間企業、営利団体が、保険制度( insurance /
assurance )として、医療保険や年金、失業補償などを、当然のことながら、契約者から保険料を受け取るのと引き換えに、組織運営している。
そして、一般に、とくに医療保険は保険料がきわめて高い。日本並みの医療保険・扶助を得ようとするなら、給与額に対する比率で、日本の保険料の数倍以上を支払わなければ、普通の医療費補助が受けられない。とにかく、医療保険加入は自己責任なのだ。
そうなると、ごくごく一握りの高額所得者だけしか、十分な医療保険給付を受けられないということになる。
それをカヴァーするのが、優良企業や大企業、あるいは進歩的な経営者が運営する企業・団体などが、従業員の福利厚生としておこなう、従業員団体としての手厚い医療保険サーヴィスへの加入だ。つまりは、いい会社に勤務することができている人たちは、その会社との雇用契約が継続するかぎりで、自分と家族の医療費について保険給付を受けることができる。
こうして、いい企業に勤められるか否かが、自分や家族のまさに健康や生命を左右するような状態になっている。
してみれば、結局のところ、アメリカは「弱肉強食の社会ダーウィニズム」が貫徹する国民社会なのだ。それでも、チャンスをつかもうとしてアメリカに移住しようとする人びとは後を絶たない。