彼は自由フランス軍装甲師団を訪れ、ルクレール将軍に密名を伝えました。密命とは、「行軍の途中からパリに直行せよ」というものでした。
自由フランス軍は、ノルマンディ上陸作戦以来、直接にはアメリカ軍の指揮下に入っていました。この局面でも、連合軍司令部の「パリを迂回してセーヌを渡れ」という命令を受けて東に向かっていたのです。
だから、ルクレールの装甲師団がパリに進撃すれば、重大な命令違反・軍規違反になります。
しかし、自由フランス軍がパリ市外に突入してしまえば、局面は一気に転換し、連合軍はパリ解放を作戦に織り込まざるをえなくなるという読みでした。
「突っ走ってから考える」、まさにフランス人らしいセンスです。
「パリ入城」に備えて、フランス装甲師団の兵員たちは、しばらく前から連合軍の補給体系からガソリンや予備弾薬を「ちょろまかして」いたのです。
師団の大型の給水車には、水の代わりにガソリンを満たしたということです。兵士が携行する大型水筒にさえガソリンが詰められたといいます。
失敬して備蓄したガソリンは、パリ市街での戦闘の1日分をまかなえる量だったとか。
翌24日、ドゥゴールはランブイエ宮に移りました。自由フランス軍のパリ市街侵入を待って、自ら乗り込むつもりだったのです。
パリ市街ではこの日、いたるところで休戦協定に綻びがきたし始めていました。
民衆は街路のバリケイドに結集し、乏しい武器を手にしていました。共産党は扇動の機関紙やビラを撒いて、危険な賭けに出ようとしていました。
ドイツ軍も比較的自制的だったとはいえ応戦しました。部分的ですが、破壊と殺戮が再開されていきます。
コルティッツは「必要な応戦」にとどめるように指示していましたが、現実は状況によりまちまちでした。
そして、自由フランス軍はついにパリ市街の一角に突入します。連合軍のほかの部隊も続きます。
翌日、8月25日、自由フランス軍と連合軍はシャンゼリゼ通りを攻め上り、オテル・ムーリスを占拠し、コルティッツに降伏文書に署名させました。
パリ管区軍政司令官コルティッツの降伏・停戦命令は、ドイツ軍の各陣営に伝えられていきました。が、この伝達経路は、やはりいたるところで寸断されていました。
そのため市街では、ドイツ軍の正規の降伏手続き終了後にも、散発的に多くの戦闘が続き、それゆえまた両陣営から多くの戦死者を出しました。
それでも、パリは解放されました。