翌朝、警視庁と大聖堂の屋根には三色旗がはためいていました。見たパリっ子たちのなかには、「ついに来た、ついにやった。開放の日だ」と早とちりした者がいました。
街路では、散発的に武装市民によるドイツ軍に対する銃撃や手製火炎瓶攻撃が始まりました。
ダウンタウンの一角では、住民たちが街路にバリケイドを築きます。障壁の材料は舗装のレンガ、古いテーブルや机、手製の土嚢などでした。
パリでは、ドイツ軍の警戒態勢はいったいにかなり緩んでいましたから、蜂起の察知と反撃の準備は遅れました。
その朝、セーヌ左岸からシテ島に渡りノートルダム大聖堂や警察本部につながる橋を渡ってきたドイツ軍の車両が数台ありました。
ところが、橋を渡り終わる寸前、ドイツ兵たちは蜂起したレジスタンスの一団の銃撃を受け、火炎瓶を浴びました。ほとんどの兵士は射殺されました。
しかし、たったひとり生き残った中尉は、火炎瓶のガソリンを背中に浴びながら、逃げ延びることができました。
中尉はやっとドイツ軍の拠点の1つにたどり着き、パリ市民による武装蜂起が始まったことを告げ、応戦態勢を要求しました。
オテル・ムーリスの司令部で報告を受けたコルティッツは、応戦・鎮圧のためにパンター( Pz.Kpfwg.V Panther :豹戦車)をシテ島に差し向けます。
「歩きながら考えるブリテン人」に対してフランス人、ことにパリッ子は「走った後に考える」性向だといいます。
ついに武装蜂起を始めてしまったのです。重火器を備えたドイツ軍に小火器では「徒手空拳」にも等しいのに。
まず走り出し壁にぶち当たって、はじめてフランス人は事態の深刻さに気づくのかもしれません。
武装蜂起の少し前、蜂起を焦った若者たちが無残に殺戮される悲劇が起きていました。
血気にはやる共産党系の大学生や青年労働者たちが極秘に集合して、独自に武装闘争を始めようとしていたのです。
彼らは武器を求めていました。その動きをとらえたドイツ軍のスパイが「武器を売ろう」と近づき、取引きをもちかけました。
ある深夜、武器の受取りと闘争開始のため、若者たちの集団がトラックに乗ってある街角にやってきました。
ところが、そこにはドイツ軍の一隊がマシンガンを手に待ち構えていたのです。幌を開けてトラックから降りようとした若者たちは、銃弾の雨を浴びて全員が殺されてしまいました。