さて、シテ島の警視庁の正面にはドイツ軍戦車パンターが2台、側面に1台が居座りました。
正面のパンターの1台は砲塔を回して、75o主砲を警視長ビルの階上に向けて発射しました。もう1台は正門の重厚な門扉に向けて砲撃しました。
威力は抜群で、本部ビルの3階の窓際が吹き飛びました。武装警官の何人かは吹き飛ばされます。そのうち1人は奥の部屋まで飛ばされ、絶命しました。
その部屋では、電話交換台にかじりついたドゥゴール派の幹部が、必死の面持ちで援軍を要請していました。しかし、ドイツ軍は周囲の道路を完全に封鎖しています。本部ビルには絶望の空気が漂い始めました。
警視庁ビルの地下室では、刑事たちが何十本もの年代物ワインの瓶の中身を捨てて、そこに塩酸やアルコール、ガソリンを混入して火炎瓶を製造していました。
その数本を持った若い警官たちが、警視庁舎を抜けだ出して隣の公園の樹林に潜み、側面の戦車に近づきます。そして石像に登って、そこから戦車の砲塔めがけて火炎瓶を投げつけます。
みごと命中。砲塔が炎に包まれた戦車は擱挫し、脱出しようとした戦車兵は射殺されました。
コルティッツは、パリ市民の武装蜂起にどう対抗するか考えあぐねていました。
悩んだ末、深夜にドイツ空軍機によって警視庁を空爆させることにしました。
ところが、航空隊に電話連絡しようとしたそのとき、スウェーデン総領事のノルトリングがやって来て、レジスタンス勢力と休戦交渉をすべきだと提案します。
ノルトリングは、「真夜中に、無灯火の市街の中心部で、あのノートルダム大聖堂のすぐ隣にある警視庁を爆撃するというんですか。攻撃が少しでもそれたら、偉大な歴史的遺産が破壊されますぞ。……手詰りなんでしょう。私が交渉を仲介します」と説得しました。
貴族家系で教養豊かに育ったコルティッツ自身も、偉大な歴史的遺産を破壊する危険があることを、深く懸念していたようです。
コルティッツは休戦のあいだに態勢を立て直すことができると考え、説得を受け入れました。
第1次世界戦争までは、ヨーロッパには「一般兵士の戦争」の上に別次元の「将軍たちの戦争」がありました。それは「貴族たちの戦争」とも呼ばれるものです。
当時、軍の将官に抜擢されるのは貴族家系の出身者たちで、彼らの多くは外国の貴族層と血縁関係や学閥人脈を結んでいました。そういう関係を土台として、軍の上級将校たちは敵どうしでも何らかの親近感や帰属意識を共有していたのです。
そこで、少なくとも将官たちの作戦指導には一定の限度があって、都市景観や建築物、芸術品の破壊をできるだけ回避しようという心情が働いていたといいます。ところが、物量動員の大量破壊兵器の投入とともに、第1次世界戦争の後半から、こういう制約はうしなわれていきました。
休戦させるため、ノルトリングは、主にドゥゴール派や穏健派のレジスタンス指導者を回って、休戦協定に応じるよう説得していきました。こうして、市街戦はしだいに収まるかに見えました。
とはいえ、レジスタンスは多様な政派・団体の寄せ集めでしたから、ところどころで散発的な衝突が引き続き起きていました。
事情は複雑な指揮系統をもつドイツ軍でも似通っていました。末端まで停戦命令が届くまでには、かなりの時間を要します。
休戦の情報を遅れて入手したロル大佐は、休戦協定の受諾は「解放闘争に対する裏切り」だと憤慨。PCF系の武装組織に攻撃の持続を呼びかけます。
一方でドイツ軍の処刑部隊は、捕らえたレジスタンスのメンバーの虐待と処刑を続けていました。
そこでコルティッツは、休戦協定を知らせるための手立てを考えました。
偶然捕らえられたドゥゴール派の幹部をドイツ軍将校に同行させて、パリ市街を白旗を掲げる車両で巡回させ、両勢力に休戦協定の遵守を広報・宣伝させたのです。こうして、武力闘争は収まっていきました。