セイヤーは、嗜眠性脳炎の後遺症で身体麻痺や硬直が起きるのは、神経伝達物質の生成・分泌・制御系の障害によるものだという仮説に立って、すべての麻痺患者たちにL−ドーパを投薬するという治療計画を考えた。
この方針を医科長のカウフマン博士に伝えた。だが、即座に却下されてしまった。 「患者の数は30人以上なんだぞ。薬代が高すぎて、病院が手当てできる医療保険額をはるかに超えてしまう」と。
セイヤーは食い下がった。
「それでは、10人では?」
「無理だ!」
「5人…?」
「ダメ!」
「では、1人だけというのは?」
「…、まあ、いいだろう」
こうして投薬治験の対象は1人ということになった。セイヤーはレナードに投薬治療試験をおこなおうと決めていた。
これについてカウフマン医科長は、「あとで問題にならないように、家族の同意書に署名してもらうようにしてくれ」と念を押した。
セイヤーはさっそくレナードの母親を説得した。そのさい、嗜眠性脳炎の後遺症の麻痺患者にドーパミンを投与するのは世界ではじめてなので、やってみないとわからない治験なのだと説明した。ドーパミンの投与の効果はわからないが、レナードの症状が好転する可能性があるという見通しを示した。
というわけで、レナードへのL−ドーパの投与が始まった。セイヤーはつねに、レナードのベッドの傍らで待機していた。
はじめは50ミリグラム。何の変化も見られない。100ミリグラム。やはり変化なし。オレンジジュースに薬を溶かしてレナードに飲ませていたが、それをミルクに変えてみた。250ミリグラム。それでも変わらない。
やがて休診日がやってきた。その日もセイヤーはレナードに付き添った。
この症状は、パーキンスン病よりもはるかに神経の伝達機能の障害がひどいに違いない、とセイヤーは判断した。そこで、桁違いのドーパミン量の服用を試みようとした。さいわい、休日なので病院の薬剤科には誰もいなかった。
セイヤーは思い切って1000ミリグラムを投与することにした。夕方、レナードに薬を与えてからもセイヤーはベッド脇にとどまった。しかし、夜が更けるにしたがって、睡魔に負けて眠り込んでしまった。
ふと真夜中に目を覚ました。だが、レナードのベッドは空だった。周囲を探したが、レナードはいない。病棟全体を見回してみた。すると、病室を出たところにあるラウンジのテイブルにレナードがいた。レナードは起き上がることができた上に、立ち上がり、歩いて机まで行くことができたのだ。
ついに奇跡が起きた。
レナードは自分の名前を書く練習をしていた。これまで30年間一度も使わなかった腕と手、指の筋肉を動かしたのだ。当然、思うようには書けなかった。たどたどしいレナードの署名だった。
「これが、ぼく(の名前)だよ」とレナードはセイヤーに告げた。
「そうだとも( I know ! )」とセイヤー。
やがて夜が明けた。レナードは診療室にいた。
レナードは立ちあがってはいたが、脚や足の筋肉の動かし方もままならなかった。摺り足で歩いて窓に近づき、夜明けの風景を眺め、天井の扇風機からの風を浴びた。
セイヤーは、レナードの母親に連絡して病院に呼び寄せ、彼女を診療室に連れてきた。母親は自分の足で立っている息子を見て驚いた。驚きが喜びに変わった。彼女はレナードと抱き合って喜びを表した。
そこにエレノア看護婦がやって来た。
診療室のドアから出てきたレナードを見て、これまた驚愕。感激。そして堅い握手と自己紹介。
セイヤーは神経科麻痺病棟にレナードを案内した。セイヤーと並んで自分で歩いて病棟に入って来たレナードの姿を見た看護婦たちが、驚いて近寄って来た。黒人女性の看護婦が感激して手を差し伸べた。「マーガレットです」と握手しながら自己紹介。「私はベスよ」と赤毛の看護婦。
セイヤーは引き続いて、病院中を案内して回る。レナードのあとからは、大勢がついて回る。行列ができた。廊下で出会った黒人の療法士に、セイヤーはレナードに療法士を紹介した。 「アンソニーだよ」
紹介された療法士は、レナードを見て目を見張った。感激が表情に現れた。
「やあ、レナード、よろしく。えーと、…気分はどうだい?」
「ああ、元気だよ。ありがとう」