その後、いろいろ調べてみたところ、今から20年ほど前の医療技術では、パーキンスン病は一般にそのように進行するという傾向があったという。ただし、具体的な進行具合、度合いは、個人ごとに非常にまちまちだという。通常の寿命いっぱいまで、ゆっくり進行する場合もあるという。逆に若時期に発症して、急速に進む場合もあるという。
それにしても、やがて通常の投薬・服用では、随意筋への神経伝達がかなわなくなる段階がやって来るらしい。すると、身体の筋肉の正常な負荷=運動ができないから、体力は衰弱していく。そして、筋肉も反応が鈍くなっていく。
やがて、どれほど人工ドーパミンを補給しても随意筋は脳の意思にはほとんどまったく反応しなくなる局面が来るという。
そうなると、今度は、不随意筋とか、意思に関係なく自律的に運動する内臓器官――たとえば循環器や消化器――の筋肉が、脳や中枢神経の指示(ホメオスターシス情報)を受けつけなくなる段階がやって来るようだ。つまり、心臓・循環器や消火器など生命を維持していく機能の麻痺が起きるという。
栄養や酸素を身体の外部の器官から人工的に補給する延命治療をするようになることもあるらしい。
しかし、それすら受けつけなくなる局面が来る。「死」が訪れるのだという。
私は、あの人のことを考えると、今でも深い悲しみにとらわれる。
ただ、大切な人のためにどれほど手を尽くしてみても、症状が進行しやがて死を迎える事態は避けられない。日々、衰弱し死に近づいていきく身内を――心の平衡を保つ努力(苦痛や苦悩)を続けながら――看取る任務の必要性と厳しさを学んだ。そして、今私は認知症の老母を介護している。
この映画を観ていて、あのときのことを回想した。
身体の機能のほんのわずかな違いが、こういう病気をもたらす。まあまあ「健康な」私とあの人との差は、紙一重もなかっただろう。まさにほんの少しばかり運――ドーパミンがまあ正常に再生産されているという好運――のおかげで、私は随意筋を動かすことができる。
ときどき私は、路を歩いていて「この一歩が踏み出せることの至福」を噛みしめることがある。
とはいえ、現在では、もっと進んだ効果のある治療がおこなわれていると知った。
その経験や学習で次のことを学んだ。
人間は普通に歩いている。だが、歩くという行動を可能にするメカニズムは、大変複雑である。生まれたばかりの赤ちゃんは、歩けない。そもそも立ち上がれない。
直立して歩行するためには、生まれた状態から「はるか遠くに旅をして」脳や身体筋肉、神経の発達成長させることを必要とする。
直立歩行とは、足を踏み出し、身体の重心を前に進めるために、瞬間瞬間にバランスを壊しながらたちまち回復する複雑な運動だ。生命は、歩行の機能を獲得するために30億年以上の深化の年月を必要とした。そこから直立歩行までに5億年以上かかっている。
つまり直立歩行とは宇宙的規模での奇蹟なのだ!。
直立歩行するロボットのメカニズムとソフトウェアの開発に、どれほどの努力が必要だったか考えてみるがいい。
そのメカニズムやソフトウェアにほんのわずかな不全や欠陥障害が起きただけで、直立歩行機能は不可能になる。全体の何億分の1のプログラミング・エラーでも。
神経と筋肉が正常でドーパミンが正常に補給され続け、その結果、神経伝達経路が正常に機能することは、運しだいの奇跡であり、生物進化の偶然の産物でしかないことを、しみじみと感じた。
私がこの映画作品を観て衝撃的に感動し、このサイトの記事にしたのは、以上のような経緯によるものだ。
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