説明会の当日、何十人もの大口出資者(資産家)たちが集まった。
彼らを前にして、セイヤーはレナードの投薬治療の成果と経過、治療の社会的な意義について説明を始めた。だが、これまで、人とのコミュニケイションよりも研究に没頭してきたセイヤー博士は、専門用語ばかりの堅い話し方になってしまった。
エレノア看護婦が、メモを渡して、わかりやすい言葉で話すようにとアドヴァイスした。そのせいか、セイヤーの話はわかりやすくなった。朴訥だが誠意と熱意に満ちていて、信頼感と説得力をもつようになった。
何よりも、レナードの回復した姿が出資者たちの心を大きく揺り動かした。新たな治療法は、筋肉と神経との連絡の不具合で悩んでいる多数の患者に希望を与えるものだった。そして、小さな医療革命がここで起きようとしていることに気がついたからだ。彼らは、次々に大きな金額を記入した小切手を差し出した。
説明会は成功して潤沢な資金が集まったので、セイヤーの病棟の麻痺・硬直症状の患者たち全員にLドーパの投薬治療が始まった。
とはいえ、患者個人個人によって症状が異なっているので、必要な薬の量や投薬治療の方法が異なることになった。言ってみれば、全員が治験(投薬治療の試験)の対象となったようなものだった。
ドーパミンの投与は、経口服用のほかにもやり方があるし、場合によってはかなりの副作用があり、脳からの運動指示情報が過剰に伝達されたりするので、治験は相当に込み入った過程になったはずだろうが、映画なので、その経過については描かれていない。
パーキンスン病などでも20年ほど前までは、ドーパミンの投与の仕方については試行錯誤が続いていた。ひどい副作用の痙攣や筋肉の勝手な興奮運動などがともなう場合が多かった。投与量もいきなり増やすと身体の平衡を崩す危険がともなっていたから、数ミリグラムずつの増量とか・・・慎重な反応試験が繰り返されたと思われる。
ともあれ、新たな治療法の適用の結果、患者たちの予後経過はまちまちだが、ほとんどの患者は回復していった。映画ではこのように描かれている。このような治療経過から、やはり、ドーパミンの欠乏によって生じた筋肉への神経伝達機能の障害によって麻痺や硬直の症状が起きていたことが確認された。