思春期から青年期の自立欲求は、親など周囲の大人へのパースナルは異議申し立てから、社会全体つまり秩序への反抗へと向かう場合も多い。
要求を無視されたレナードは、「病院から出せ!」とか「ぼくは、自由な生活がほしい!」という要求を声高に掲げるようになった。そして、周囲の患者たちを扇動するようになった。
身体の機能が回復したのに、病院側は監視や統制を続けて、われわれの自由を奪い続けている。われわれは結束して、病院側の横暴に抵抗すべきだ! と。まもなく、扇動に乗せられやすいお調子者たちが数人、レナードの周囲に結集した。
だが、残りの者たちは、レナードの言い分には共感するのだが、あまり強い自立の要望には同調しなかった。だから、彼らはレナードたちの傍らで、近いところにいながら距離置いて、成り行きを見守っていた。
そもそも、多くの患者たちは、最近ようやく硬直や機能麻痺から回復し始めたばかりで、病院の保護や介助なしでの生活には大きな不安があった。罹病者たちは、身体自由の回復度に応じて、病院の療護への依存とそこそこの自立・自由とのあいだの微妙なバランスを求めていたのだ。
だが、病院側は、過激化するレナードを強く警戒して、ほかの患者とともにもとの病棟に収容して、簡単な柵を設けて自由な出入りを制限してしまった。というのも、レナードたちは今、投薬治療実験の最中にあって、治療の成果や経緯を注意深く観察・研究しているところで、自由な外出や「普通の生活」なんてとんでもないことだったからだ。
とはいえ、セイヤーはレナードの精神状態・心理を理解していた。
すぐれた知性や深い教養を備えた精神が、もう30年間以上も、硬直・麻痺した身体に閉じ込められていたのだ。やりたかったこと、見たかったこと、体験したかったことが山ほどあるに違いない。ようやく身体の機能hが回復したときに、病院施設に閉じ込められているのだ。「自由への渇望」が抑えようながなくなっているのだろう。
レナードの心理を慮って、そんな判断をしているのは、セイヤー医師とエレノア看護婦だけだったようだ。
ほとんどの病院関係者(医師やスタッフ)は、レナードの要求が危険なものだと判断していた。
患者たちがいつまた麻痺や硬直に戻り、危険な状態に陥るか知れたものではない。そのとき、専門的な知識や技術を備えた医師や看護婦、療法士がそばにいいて、注意し、保護・看護しなければ、患者は大きな危険に陥る、と。
ところで、レナードの過激な自由の要求と反抗に一番衝撃を受けたのは、母親だった。すっかり息子の人格・性格が変わってしまった、と。そして、そうなったのは投薬治療・薬剤のせいだと決めつけた。母親もまた、レナードの思春期や反抗期を経験していなかったのだ。これまで彼女にとって、息子は一方的な保護・庇護の対象でしかなかったのだ。