この物語の冒頭の場面は衝撃的である。
戦場での凄まじい戦闘・破壊シーンから始まるのだ。
多くの兵士たちは、飛び交う砲弾の嵐の下で、塹壕に身を潜めて震えている。だが、指揮官の号令で突撃作戦が始まった。第1次世界戦争の一幕だ。
凄まじい破壊力のまえに兵士たちは恐怖におののき、必死に生き延びようとする。
ところが、飛び交う砲弾や銃弾をまったく無視して、塹壕の近くで手帳に無心で文章を書き込んでいる、異様な風体の若い兵士がいた。思考に集中している彼には、戦場の殺戮と破壊がまるきり見えていないようだ。
その兵士こそヴィトゲンシュタインで、そのとき、のちに《論理哲学論考》として出版される考察に関する覚書を書きとめていたのだ。
恐ろしいほどの集中力で、彼の意識は、目の前で炸裂する爆薬の脅威から完全に遊離していたようだ。
人間の思考と認識について恐ろしく厳密な分析と解釈を試みたヴィトゲンシュタインは、哲学では思考論理と真理認識について「正しく考察できない」とペシミスティックに結論づけた。哲学は論理を包含しえないし、論理は哲学を排斥・拒否する、というのだ。
要するに、現実の内容をほとんど削ぎ落として抽象の極限に論証を構築する数学(数理学)だけが、外形的にのみ真理の輪郭(中身ではない)を写し取ることができるだけで、内容に踏み込んだ途端、人間は真理から遠ざかる、ということらしい。
――超変人ヴィトゲンシュタインの超難解な理論について私は理解しているわけではないが、曲解を恐れず結論づければ、そういうことではなかろうか。
というわけで、冒頭から真理――ただし、ここでは真理・真実は〈 validity 〉ではなく、〈 truth 〉として語られる――について人間は不可知であるというシニカルなテーゼが掲げられる。
ヴァリディティとは哲学的用語で、しかるべき認識手続きと論理構成によって把握され論証された「真理」」という意味で、一般的には「真理らしき事柄」「真正とされたもの」という意味になる。これに対してトゥルースは、一般には「真実」「本当の事実」というほどの意味だ。
■セルダムとマーティンの論争■
さて、セルダム教授――「めったにできない」「ほとんどありえない」という意味の、これまたシニカルな名前ではないか!――を尊敬するマーティンは、教授が新著の書籍=論文について、学寮で講演をおこなうことを知って、会場に行ってみた。
教授は、マーティンの期待に反して、人間による認識は断片的で歪んだ世界の写像にすぎないと主張した。
思いもよらないシニカルな結論に納得できないマーティンは、レクチャーのあとで教授に論争を挑んだ。
「しかし、雪の結晶は美しい秩序を備えているし、数理は厳密で論理的な秩序をなしているではありませんか…」と。
これに対する教授の反駁は辛辣だった。
「だが君、数そのものは、そのままの状態で現実に存在するのかね。数字や数理というものは、人間が現実世界を抽象化して、そこから断片的に取り出してきた論理にすぎないのではないのかね。
要するに、数理や論理というものは、人間の主観の側が選別的に写し取った(歪みをともなう)写像にすぎないのだよ。
ケイアス(カオス)理論は、ここでの蝶の羽ばたきが地球の反対側で大嵐を生み出す(こともある)ということを主張したが、そのことでタイフーンやサイクロンの発生機構を解明できたのかね。していないじゃないか…」
ここで目立って教授の評価を得ようと挑戦したのだが、結果は最悪になってしまった。
セルダム教授の考えとは合わないことを悟ったマーティンは、別の大学に移ろうと間借り先の家に戻って荷づくりして、老婦人イーグルトンに挨拶しようとした。そのときに、やはり彼女を訪ねてきたセルダムと玄関前で鉢合わせした。
こうして、2人は殺人事件の発見者になった。
マーティンは教授の指示で、この殺人事件の謎解きをすることになる。
殺人という犯罪事件の捜査は、まさに真実を解明する過程であって、分析と推論によって、認識を構成していく過程である。つまりある種の真理を認識する過程なのだ。2人が正反対の意見をもっている真実の認識が正しく進むのかどうかという問題の吟味が、殺人事件をめぐって展開することになった。
かくして、マーティンによる殺人事件の調査の過程が、人間による真理認識の行方と可能性をめぐる視点の展開とパラレルに進行する。